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田原坂

田原坂

現地案内板より
西南の役で最大の激戦となったのが、明治10年3月4日から20日までの17昼夜にわたる、壮絶なる田原坂の戦いです。明治10年の西南の役は、日本史上最大にして最後の内乱であり官薩両軍が国を想う真情と信念により戦われた一大血戦でした。
西南の役では、参戦者約10万人・死傷者3万6千人を数え、ここ田原坂の戦いでは死傷者6千5百人にものぼる壮烈な戦いがくりひろげられました。
この田原坂公園は、昭和32年に作られ、植木町では、西南の役の意義を後生に残すため田原坂資料館・弾痕の家建設・資料・遺品の保存展示、及び、付帯施設の充実など、田原坂の公園整備に努めています。
また、毎年有志により植木町西南の役田原坂慰霊祭などが実施されています。

弾痕の家

弾痕の家

百周年記念碑

百周年記念碑

薩摩塚

薩摩塚

薩摩塚(古塚)

この塚はかつて旧植木町役場入口と国道三号線との交差点付近に建てられていて、戦国時代の島津との戦いにおける戦死者を葬っていたそうですが、西南の役における薩摩軍戦死者約二十名が、戦後地元住民の手で合葬されたそうです。昭和四十三年新道路建設のためこの地に移されました。
(現地案内板より要約)

西南の役戦役者慰霊之碑

戦没者慰霊の碑

西南の役戦役者慰霊之碑

現地案内板より
この慰霊碑は、明治十年(1877年)の西南の役で戦死された官軍6923名、薩軍7186名、殉難者29名の御霊の安らかならんことを願って建立したものです。西南の役は、明治維新における新政府の施策をめぐる相反した意見の対立が膨らみ、ついに国内史上最大最後の内乱、西南戦争勃発に至ったのであります。国の安寧と民族の発展を希求して止まなかった前途有為な青年たちが、立場こそ官薩両軍に分かれて熾烈な戦いを行いましたが、国を憂う志士たちの熱傷は異なるところなく、骨肉相食む悲劇という外ありません。

美少年像

美少年像

美少年像

美少年像

美少年像

現地案内板より
『雨は降る降る じんばはぬれる こすにこされぬ 田原坂  右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年』
この美少年像は 西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である

戦いの期間中は霙混じりの雨また雨の天候でした。

田原坂崇烈碑と戦没者名簿

田原坂崇烈碑

田原坂崇烈碑(すうれつひ)

戦没者名簿

戦没者名簿

碑文には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子などがまとめられています。もし、薩軍が南関を破り北上したなら、各地の不平士族が立ちあがり、禍いは測り知れなかったであろうと、官軍の立場で書かれています。

田原坂(一の坂・二の坂・三の坂) 現地案内板より

熊本鎮台のおかれた熊本城から植木町『田原坂』までの約15キロメートルは台地で続き、『田原坂』はその北端にあります。戦国の名将加藤清正はこの道を意図的に深く掘り込んだうえに、曲がりくねった凹道とし城北防衛の要地としていました。
当時、大砲や軍事物資を載せた馬車の通る広い道はこの道しかなく、田原坂の強行突破を計る官軍は、左右の高い土手や正面の雑木林から姿の見えない薩軍に銃撃され、退却しようとすると前後に回り込んだ薩摩兵に切り込み攻撃を受けこの坂を抜くことができず、何の変哲もないわずか1.5キロメートルのこの坂を巡って、3月4日から17昼夜にわたる激しい攻防戦が展開されたのです。

3月20日、現在、薩軍墓地のある柿木台場が陥落したことにより、田原坂本道方面を守る薩軍が背後からの攻撃を受け敗走するに至り、最後まで、官軍は田原坂本道を抜くことはできなかったのです。