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Last Updated: 23 September 2011

【いろは丸沈没事件】

以下、ウィキペディアより引用しました。

1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃に伊予国大洲藩所有で海援隊が借り受けて長崎港から大坂に向かっていたいろは丸と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸が備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島(北緯34度18分16.0秒 東経133度31分53.7秒 )付近で衝突した。明光丸は、イギリスで建造され長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船であった。いろは丸は大破し自力航行不能となって、船舶の修理施設の整った近くの備後国沼隈郡鞆の浦へ明光丸により曳航される途中に、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島(北緯34度18分52.7秒 東経133度27分55.8秒 )沖で沈没した。搭乗していた坂本龍馬はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったあと鞆の浦に上陸した。龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋の升屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を開始したが、交渉がまとまらぬうちに明光丸が長崎に向けて出港し、再交渉を行う為に後を追った。

長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩(参政後藤象二郎)は紀伊藩(勘定奉行茂田一次郎)と争った。土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及した。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。さらに、民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせた。この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている。事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。江戸時代後期の一両は、日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、現在の価値に換算すると米価から計算して3万円から5万円となり、8万3526両198文は約25億円から約42億円に当たる。 なお、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった。賠償金はその後紆余曲折があって、7万両に減額され、11月7日に長崎で支払われたが、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。

いろは丸展示館

いろは丸展示館

いろは丸展示館(福山市鞆町鞆の浦)

いろは丸展示館

いろは丸展示館内

いろは丸展示館

沈没船調査風景の模型

いろは丸展示館

升屋(枡屋)の隠れ部屋を再現

【現地案内板より】

1989年いろは丸と見られる沈没船が福山沖で発見された。これを受けて、京都の水中考古学研究所が1989~1990年に一次から三次の調査を行い遺物を引き上げた。この船は幕末史を飾る著名な船であり、歴史的価値が高いと判断され、広島県及び福山市の文化担当部署により「沈没船(19世紀のイギリス船)埋没地点遺跡」として正式に登録された。2005年夏、日本テレビの協力により第四次調査が行われた。

枡屋清右衛門(ますやせいえもん)宅 【現地案内板より】

この建物は「いろは丸事件」で坂本龍馬と海援隊士が鞆(とも)に上陸したおり、数日間宿泊した廻船問屋、枡屋清右衛門宅です。

枡屋清右衛門宅

枡屋清右衛門宅

枡屋清右衛門宅

枡屋清右衛門宅

いろは丸事件談判跡

いろは丸事件談判跡

いろは丸事件談判跡

坂本龍馬はこの地で紀州藩との談判を行いました。

いろは丸事件談判跡

いろは丸事件談判跡

いろは丸事件談判跡館

いろは丸事件談判跡

福山市鞆町鞆の浦

鞆の浦

鞆の浦

太田家住宅・鞆七卿落遺跡

維新の夜明けも近い1863(文久3)年8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の公家は、公武合体派に追われ都落ちをしました。一行は、ここ旧「保命(ほうめい)酒屋」に立ち寄り、その時、三条実美は保命酒をたたえる和歌を残しました。

太田家住宅・鞆七卿落遺跡

太田家住宅・鞆七卿落遺跡

太田家住宅・鞆七卿落遺跡

太田家住宅・鞆七卿落遺跡

福山市鞆町鞆の浦

鞆の浦

鞆の浦