(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 29 May 2010
熊本藩士であり儒学者でもあった横井小楠(よこいしょうなん)文化6年(1809)~ 明治2(1869)
横井小楠も元は激しい攘夷論者でした。「海国図志」などの書物の影響を受けて世界に目を向けるようになり、安政元年の日米和親条約締結の頃から考え方が変わっていきます。その後は開国論者として東の佐久間象山、西の横井小楠とまでいわれるようになりました。
幕末維新の開明思想家として知られた横井小楠の旧居。安政元年(1854)兄時明がなくなったために家督を継いだ横井小楠は翌年、城下からこの沼山津(ぬやまず)の地に移り住み、四季の眺めを楽しむというところから「四時軒」と名づけ、自らも沼山(しょうざん)と号しました。小楠は、明治元年(1868)新政府に招かれ参与となり京都に向かうまで、ここで門下生の指導にあたった。その間、四度も福井藩に政治顧問として招聘されており、土佐の坂本龍馬も彼の名声を聞いてここ四時軒を三度訪れている。この旧居も明治の頃に客間だけを残してしょう消失したものを、諸記録に基づいて残りの部分を再建し旧態に復したものである。
熊本市
以下、『横井小楠 維新の青写真を描いた男』より引用しました。
坂本龍馬は沼山津で蟄居(ちつきょ)中の小楠を3回訪問している。最初は、元治元年(1864)2月で勝海舟の使者として時事問題について伝言すると共に援助金を小楠に渡している。前年に小楠と龍馬が由利公正(ゆりきみまさ)の邸宅で、挙藩上洛計画などについて語り合ったことが、すでに夢かまぼろしのようであった。2回目は同年4月で、小楠の甥二人(左平太・大平)と門下生の岩男俊貞(いわおとしさだ)が海舟の神戸海軍操練所に入ることのなったので、龍馬が迎えに来たのであった。3回目は慶応元年5月、龍馬が薩摩から帰りがけで、白の琉球絣(りゅうきゅうかすり)の単衣(ひとえ)に鍔細(つばぼそ)の大小を腰に差した、粋な格好での訪問だった。その時、二人が会談した12畳の客間が現在も沼山津の横井小楠記念館に隣接して残っている。その客間から見た外の景色は、龍馬の瞳にも映ったであろう当時のままの田園風景である。
安政5年(1858)冬、横井小楠の一時帰国に同行して三岡八郎は九州に旅立った。目的は長崎での物資販売ルートの開拓であり、この成功により藩財政は著しく改善され、福井藩は幕末の雄藩としての地位を固めていった。彫像は九州に旅立つ三岡八郎(後の由利公正)と横井小楠の姿を表現したものである。
熊本藩士。幕末期の最も進歩的な思想家の一人であり、勝海舟、坂本龍馬なども一目置く存在だった。福井藩主松平春嶽は小楠の実力を見抜き、彼の派遣を熊本藩に要請した。この英断により安政5年(1858)小楠は福井藩の政治顧問に招かれ、三岡八郎等を指導し、藩政改革にその思想を反映させた。文久2年(1862)春嶽が幕末の先頭に立つ役職である政事総裁職に就任すると、そのブレーンとして国政に大きく関与した。文久3年(1863)福井藩を辞去し熊本に帰国。大政奉還後に新政府に招かれたが、明治2年(1869)京都で暗殺された。
明治2年(1869)、小楠は京都で暗殺されます。
以下、『横井小楠 維新の青写真を描いた男』より引用しました。
駕篭が丸太町の角をすぎたところで、黒覆面の刺客、上田立夫が駕篭めがけて短銃を一発うち込んだのを合図に、刺客の一同が斬りかけてきた。小楠は動ずることなく、駕篭を抜けだし短刀をぬいて身がまえた。激しく斬りかかる敵、それを防ぐ小楠と警護の人々、たちまち修羅場となった。小楠は駕篭を背にして、斬り込んでくる敵を短刀で何とか防いでいた。しかし病後のうえ老体である。幾太刀かうけ、さらに横合いから斬られ、やがて地面に倒れた。
横井小楠