水天宮(久留米)

(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 13 June 2010

真木和泉(まきいずみ)は、文化10年(1813)この地、筑後国久留米の水天宮の神職の家に生まれ、尊攘派の先達として幕末の志士たちを指導しました。

水天宮 ※現地案内板より

寿永4年3月壇の浦の合戦の後、女官按察使局(あぜちのつぼね)伊勢(のち千代と改む)が筑後川畔鷺野(さぎの)に遁れて始めて水天宮を祀る。時に建久初年という。その後諸処に移転し慶安3年9月藩主有馬忠頼(ただより)公が社地社殿を寄進して現在の所に遷し奉る。此処は古の鷺野ヶ原の故地にして、これより神威弥益に輝き水徳の神として水難、安産、火災、疫病、除災の霊験を以て知られ、海運、農漁、商業の信仰篤く又、子供の守護神として筑肥一円の民は春大祭に子供を参拝せしむる習慣がある。当社は往時全国唯一の禁裏ご祈祷書に仰付けられた名社にして全国水天宮の総本営である。東京の水天宮は藩主有馬頼徳(よりのり)公のとき文政元年ここから江戸にご分霊したもので、その全国所在の水天宮は皆当社を本営とするご分霊社である。かつて国軍隆盛を極めし頃、水上母艦千歳の守護神として艦内神社にご分霊を奉斉せられた事も当時郷土の誇りであった。因みに5月5、6、7日の春大祭川祭りは門鉄の管内三大行事として喧伝され8月5、6、7日の夏祭奉納花火は筑後花火の揺籃(ようらん)である。境内には明治維新の先覚者前大宮司贈正四位真木和泉守保臣の命を祀る真木神社、水天宮の創建者按察使局を祀る千代松神社がある。河童発祥地としても有名である。

水天宮(久留米)

水天宮(久留米)

水天宮(久留米)

水天宮(久留米)

水天宮(久留米)

水天宮(久留米)

水天宮(久留米)

水天宮(久留米)

真木和泉 ※現地案内板より

真木和泉守保臣(1813~1864)は明治維新の中心的指導者である。水天宮神職の家に生れ早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、音楽にも長じ、藩校明善堂から表彰をうけた。傍らに流れる筑後川は菊地一族の誠忠を語り、少年の時に愛読した絵本楠公記は尊王愛国の精神を培い、長じては水戸学を中心に学識を深め、しかも身をもって実践した。藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居(ちっきょ)したが、後に脱出して東奔西走、国事に盡し諸国の志士から「今楠公」と謳われ、その中心的指導者と仰がれた。彼は蘭方医工藤謙同と親しく、外国の事情にも通じ久留米の医学刷新に盡し、久留米藩医学館の生みの親といわれる。また早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、長州藩と共に倒幕の軍を起こし禁門の変に敗れ、同志16人と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃した。

大山の 峰の岩根に 埋めにけり わが年月の 大和魂

真木和泉像

真木和泉像

真木和泉像

真木和泉像

山梔窩(くちなしのや) ※現地案内板より 別名:山梔窩(さんしか)

真木和泉守保臣先生は同志と共に久留米藩を改革しようとして却ってこの地を南に去る十六粁(キロ)水田村(現在の筑後市水田区)弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられた。その翌年庭の一隅に小さな家を建てて山梔窩と名づけ自炊の生活を送りつつ附近の子弟を教育し後には久留米から参加する者もあり多くの人材を養成した。これからの門下生には後には幕末の動乱に活躍し国難に仆れたものが少なくない。また平野国臣を始め諸国の同志の来訪もあり、これらと連絡して策を練り、朝廷に上書するなど、この山梔窩は尊皇倒幕の一大策源地となった。幽居十一年時勢の急迫と共に

やがて世の 春に匂はん梅の花 かた山里の 一重なりとも

一首の和歌を書き残して脱出し、明治維新を目指して、その中心的指導者として活躍した。この建物は史料により当時のものをこの地に模して建てたものである。

山梔窩

山梔窩

山梔窩

山梔窩

真木神社 ※現地案内板より

御祭神
主神 贈正四位 真木和泉守保臣命
当水天宮第22代大宮司にして藩政の改革子弟の教育、尊皇、倒幕明治維新の中心的指導者として活躍し禁門の変において国難に殉ぜられた。
相殿 明治維新に際し国難に殉ぜられた一門及び門下生
大鳥居啓太信臣命、真木菊四郎弦命、原道太楯雄命、半田門吉成久命、渕上郁太郎祐広命、古賀簡ニ磐勒命、渕上謙三祐利命、鶴田陶司孝良命、水田謙次恒命、酒井伝次郎重威命、中垣健太郎幸雄命、荒巻羊三郎眞刀命

相殿 天王山にて真木保臣先生と共に国難に殉ぜられた十六烈士
池尻茂四郎懋命、松山深蔵正夫命、加藤常吉任重命、酒井庄之助直則命、松浦八郎寛敏命、安藤直之助強恕命、松田五六郎安定命、千屋菊次郎孝健命、西島亀太郎頼秋命、広田精一執中命、熊勢達太郎成章命、小坂小次郎雄宗命、宮部春蔵増正命、岸上弘安臣命、加屋四郎時雄命、中津彦太郎直義命

宮部春蔵は宮部鼎蔵(みやべていぞう)の弟です。

真木神社

真木神社

真木神社

真木神社

工藤謙同先生碑 ※現地案内板より

工藤謙同(1801~1861)は、久留米の地で初めて蘭方医学を開いた名医である。豊後の国杵築の医家に生れ、蘭医シーボルトや宇田川榛斎(うたがわしんさい)に医学を学び、切に乞われてこの地で医業を開いた。謙同は淡白。寡慾、らい落で、しかも信ずることに篤く、漢方医の圧迫に屈せず、また国老の藩医への推薦も固く辞して受けなかった。謙同は特に真木和泉守と親交を結び、共に国事を論じ、また海外の情勢、西洋学術の進歩につき和泉守に新知識を授けた。これが和泉守の藩 医学の刷新、医学館開設の上申となり、引いては国防開国論を唱えた佐久間象山を朝廷に推挙することになった。謙同は和泉守に先立つこと三年、この地で没したが、その男子三人はいずれも医業を継いで名聲を博した。

工藤謙同先生碑

工藤謙同先生碑

筑後川 ※現地案内板より

九州一の長さを誇っています「母なる川」清流筑後川は、その源を阿蘇外輪山の一角に発し、熊本、大分、福岡、佐賀の4県を曲流蛇行して、不知火と潮の干満差で知られています有明海に注いでいます。「筑紫次郎」という異名を持ち、坂東太郎(利根川)、四国三郎(吉野川)と共に、日本を代表する三大河川として知られています。また、千歳川、一夜川とも呼ばれていますが、現在のように筑後川と呼ばれるようになったのは、寛永年間(1624~1644)のことです。
この川は、全国河童の総帥「九千坊」のふるさとでもあり、流域には数々の河童の伝説があります。
また、毎年8月5日にはこの地で花火大会が盛大に催され、その規模は西日本一を誇り数万発の花火が真夏の夜空を七色に彩ります。

筑後川

水天宮から見た筑後川

筑後川

水天宮から見た筑後川