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Last Updated: 18 February 2007
歴史の街、平戸をご紹介します。
平戸市(ひらどし)は、長崎県北西部の平戸島を主な行政区域とする市で長崎そして九州本土としては最西端に位置する都市。鎖国前は国際貿易港だった。旧平戸藩(松浦氏)の城下町。
【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より】
幕末関連では、吉田松陰や『胡蝶の夢』に登場します島倉伊之助(司馬凌海)などありますが、ここでは幕末以外をとりあげました。
聖フランシスコ・ザビエル記念像 ※現地案内板より
東洋の使徒、偉大な聖者として世界の人々に尊敬されているフランシスコは1506年4月7日スペインのナヴァラの貴族の子として生まれた。彼はパリー大学在学中、「人は全世界を掌にすることができても、その魂を永遠に滅ぼすなら何の意味があるか」(マタイ16の26)という聖句を沈思も黙考、人間の幸せは愛によって神に結ばれ祝福される生き方にあることを悟り、既に約束されていたパリー大学教授の地位と一切の名誉から離れ、同志とともに修道会(イエズス会)を創立しキリストの教えを伝える一介の伝道者になった。
インド各地の伝道の後、1549年8月15日多難な航海を経て鹿児島に上陸、日本に初めてキリスト教とヨーローッパ文化を伝えた。翌年聖師は平戸に来島、藩主松浦隆信の歓迎を受け、教えを説き多くの信徒を得た。その後山口・京都などに伝道しながら、その間二度も平戸を訪れた聖師は余程平戸を愛したのであろう。
根獅子 昇天石(しょうてんせき)のある浜辺
聖師ザビエルによって平戸に種まかれたキリスト教は驚異的に信徒の数を増し、ザビエル来島の翌年(1551年・天文20年)には日本最初の教会がこの平戸に建立された。以来今日まで四百有四十年の歳月を経たが、この間幾多の過酷な迫害もあり、1559年には宇野殿の家臣某は棄教を拒み、又マリアおせんという女性は主君から禁じられていた十字架の丘への参拝をやめないという理由で斬首された。この人たちが数多い日本のキリシタン殉教者の初穂である。1587年、豊臣秀吉の禁教令発布で平戸の殉教者は激増した。渡島・根獅子・生月・田の浦・薄香・中江の島・川内浦等で殉教した信者の数は四百人を超えると伝えられる。(現地「平戸殉教者顕彰慰霊之碑」案内板より抜粋)
殉教の地のひとつ、根獅子の海岸です。現在はエメラルドグリーンに輝く海水浴場となっています。ここには『昇天石』という岩が海面に顔を出しています。
「この根獅子地区の信者をはじめ、おもて向きは仏教徒をよそおう"隠れキリシタン"として信仰を続ける人達もいたが、1566年(永禄九年)に"おろくにん様"が処刑、さらには1635年(寛永十二年)七十数人が捕らえられ、この浜辺において処刑をされた。処刑はこの浜辺にある小岩で行われ、ここからパライソ(天国)へ逝ったことから"昇天石"とよび、今なお聖地として祀られている」 ※現地案内板より
松浦隆信の墓 ※現地案内板より
松浦家28代隆信(宗陽)は、1591(天正19)年に生まれ、1637(寛永14)年に没した。隆信(宗陽)の時代は、平戸藩の歴史上もっとも変化の激しい時代であり、平戸がオランダ・イギリス・中国等外国との貿易に、大変な賑わいを見せていた時代であった。隆信(宗陽)が没した4年後の1641(寛永18)年に、オランダ商館が長崎へ移り、華やかだった海外貿易は終わりを告げたのである。
寺院と教会の見える風景
『寺院と教会の見える風景』、その寺院である光明寺から平戸の海の眺望
平戸和蘭商館跡
1641(寛永18)年に長崎出島へ和蘭商館は移転しますが、それまでの平戸は貿易港として非常に賑わっていたそうです。
常燈の鼻
商館が長崎へ移転した後、1643(寛永20)年に常夜燈が設置され、夜間の船の航行に危険な平戸瀬戸の灯台として機能したそうです。
オランダ井戸とオランダ塀
これらは1640(寛永17)年の幕府の破壊命令で、わずかに残されたオランダの名残です。
英国商館遺址之碑とオランダ橋
当初、ここに架けられていた橋は木橋(1669年設置)であったが、1702(元禄15)年、石橋に架けかえられた。かつてオランダ商館が築造した、石造倉庫の技法によって造られたといわれており、これが「オランダ橋」の別称の由来となっている。 ※現地案内板より
今回ご紹介しますのは、平戸大橋(昭和52年完成:665m)で本土とつながっております平戸島です