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Last Updated: 27 April 2008
平野国臣(ひらのくにおみ)文政11年(1828)~元治元年(1864)
幕末にあまりぱっとしなかった福岡藩ですが、先駆的な志士はいました。その人の名は平野国臣(ひらのくにおみ)文政11年(1828)~元治元年(1864)です。
以下、海音寺潮五郎氏の『幕末動乱の男たち』より引用しております。
父平野吉郎右衛門能栄(よしひで)は筑前黒田家の足軽であったが、なかなか出来のよい人物で、神道夢想流の杖術、一角流の捕術、一達流の縄術に達し、藩の足軽隊の師範を命ぜられ、一代に取立てた門人が千余人もあったという。二郎国臣はこの二男である。18歳の時、普請方手付に任命され、太宰府天満宮の楼門の修理を手がけ、弘化2年に江戸勤番を命じられ江戸にでた。
24歳の時、普請方手付として宗像郡大島に出張、北条右門(薩摩人:木村仲之丞が本名)と出会う。北条は島津斉彬に早く島津家を嗣がせようと運動したことが災いとなり、仲間の多くは捕らえられ処刑されたが、運良く逃れ福岡黒田家にかくまわれた。当時の黒田家の当主は斉溥(なりひろ)【長溥(ながひろ)】で薩摩藩からの養子、斉彬の大叔父にあたる人であった。
斉彬は国臣が北条と知り合った頃には薩摩藩の当主となっており、彼の忠誠を認め度々使いを送って金品など贈った。その使いを多く勤めたのが西郷隆盛であった。西郷の話すことは北条を通して国臣に伝わり、運命を左右する程の大きな影響を与えた。また国臣は水戸の学者、会沢正志斎の「新論」に感激し、尊王論と国粋主義に傾注してゆき、妻子をも捨てることになる。
世のために 捨ては捨てしが 年経ても 忘れぬものは わが子なりけり
安政5年(1858)、島津斉彬が急死し、薩摩藩の率兵上洛は立ち消えとなりました。結果、西郷隆盛たちの工作は失敗し、幕府から追われる立場となった月照を平野国臣は供となって薩摩へ護送します。やっとの思いで薩摩へ到着しますが、薩摩藩庁は西郷に対し月照を日向国へ連行するように命じます。西郷・月照・国臣は舟で日向へ向かいますが、前途を悲観した西郷は月照とともに入水、月照は溺死、西郷は国臣らに助け上げられました。
安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変が起こり井伊直弼は暗殺された。その頃下関の白石正一郎邸にいた国臣は井伊の暗殺に祝杯をあげる。幕府恭順の黒田家では、国臣を危険人物とみなし捕縛するよう手配したため、国臣の逃避行生活が始まる。肥後の松村家に庇護されたり、久留米の真木和泉らと国事を談じるようになる。真木和泉の娘お倬とは恋仲にもなっている。文久2年(1862)の寺田屋事件の後、国臣は捕縛され福岡荒津の浜にある牢につながれる。牢内では筆、紙は与えてもらえず、国臣は塵紙でこよりをつくり、それをひねって文字として別の塵紙に貼り付け数編に及ぶ長大な著述をした。翌文久3年(1863)国臣は釈放となり、藩命で京へ上る。
以下、海音寺潮五郎氏の『幕末動乱の男たち』より引用しております。
出獄してからこの時までの期間に、かねて国臣の親しくしている野村望東尼が、国臣とお倬を結婚させようとして、真木家に行ったりなどして骨折り、めでたく行きそうだったが、国臣にこの新しい任命があって上京することになったので、そのままになってしまった。以後、国臣は死ぬまでお倬に会わないのである。
二十八日、出発した。この時の歌、
海山に 潜みし 竜も時を得て けふは雲井に 立ちのぼるなり
黒田長政は、慶長5年(1600年)10月、筑前の領主となり名島城に入城したが、治政上適地でないとみて、この地に福岡城を築いた。この地は当時福崎といっていたが、長政は祖先の領地備前(岡山県)の福岡にちなんで改名したといわれる。
築城には7ヵ年を要し、石垣積みの名人といわれた重臣野口一成のさしずによって、5メートルから15メートルにおよぶ石垣がめぐらされ、今もなお、その規模の雄大さを誇っている。 (福岡市教育委員会)
別名「舞鶴城」と呼ばれ、九州一の広さ(47万平方メートル)を有す城が完成しました。その雄大さに熊本城藩主の加藤清正も絶賛したといいます。特に野口一成が指揮した石垣が素晴らしく、別名「石城」とも呼ばれています。
以下、海音寺潮五郎氏の『幕末動乱の男たち』より引用しました。
幕末・維新の時代には、天下の諸藩それぞれに慷慨(こうがい)憂国の人を出しているが、多い藩もあれば、少ない藩もある。それは概言して、そのはじめにおいて徳川氏に恩を蒙ること深かった藩には少なく、薄かった家に多い。筑前黒田家は関ヶ原役以前は豊前中津12万2千石に過ぎなかったのが、この役で一挙に4倍以上の52万3千石の大封(たいほう)の主となった。黒田家に大手柄のあったことは言うまでもないが、それでもこのありがたさは、3世紀に近い年が経っても忘れられない。筑前人は現代においても豪放闊達、最も男性的な人が多いのに、この時代には慷慨の士が至って少ない。それはこのためである。
天守閣跡からの眺望
左側の写真には福岡市の中央にある大濠公園が見えます。そこから方向を北へ向けますと福岡タワーやヤフースタジアムが望めます。
現地案内板より