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名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)にあった城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた城。国の特別史跡に指定されている。名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であった垣添城跡があり、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を計画した。
大手口の概要 ※現地案内板より
城の正面入口といわれており、ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道(たいこうどう)」と呼ぶ道がのびています。平成4年度の発掘調査で櫓台(やぐらだい)下の東側広場から掘立柱(ほったてはしら)跡が見つかりました。また前面の石垣からは、石垣改築の跡を見つけることができました。同年、櫓台を中心に崩壊危険箇所の石垣修理を行い、あわせて遺構保護をかねた、広場の植栽を行いました。
名護屋城