山田方谷所縁の地、備中の小京都 高梁市を訪ねました。
(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 16 May 2009
山田方谷(やまだ ほうこく)文化2年(1805)2月21日~明治10年(1877)6月26日
山田方谷は、百姓の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市)で生まれ、20歳で士分にとりたてられ、天保4年(1833)には江戸に出て佐藤一斎に学び佐久間象山とともに二傑と呼ばれました。藩主板倉勝静(いたくら かつきよ)のもと藩政にも参加、当時どん底の財政の建て直しに貢献しました。長岡藩の河井継之助に師として崇められたことでも有名です。幕末の混乱期には藩を滅亡の危機から回避させ、明治維新後は大久保利通から大蔵卿として仕官することを要請されますがこれを固辞し、明治10年(1877)6月26日一教育者として亡くなります。 『財政の天才 幕末を駆ける ~山田方谷・奇跡の藩政改革~ [DVD]』は山田方谷を知る上で参考になります。
伯備線開通当時(昭和3年)鉄道省は、駅名を地名である中井・西方または、長瀬の中からと考えていた。しかし地元としては、山田方谷の名を方谷駅として残したいという強い願いがあった。そこで方谷というのは、西方の谷のことで人名ではないと、陳情を重ね遂に、当時としては全国唯一の「方谷駅」という人名駅が誕生した。
長瀬塾(跡碑) ※現地案内板より
山田方谷は、備中松山藩の元締役を退いた後の1859年(安政6年)55歳の時、土着政策を自ら実践するため、この地に(方谷駅構内)移住した。この年、後に藩政改革で功績を上げた、長岡藩士(現在の新潟県長岡市)河井継之助が訪れている。1869年(明治2年)塾舎を増築して子弟教育に努めていたが、亡母の霊を慰めるため大佐町小阪部に住居を移転し、長瀬塾は嗣子耕蔵に託した。1881年(明治14年)耕蔵没後、遺族は元の山田家跡(高梁市中井町西方)に移った。1920年(大正9年)山田方谷縁の人々は、旧宅跡が分からなくなることを恐れて屋敷跡に「山田方谷先生旧宅跡」と石碑を建てた。1928年(昭和3年)伯備線敷設に伴い、石碑を現在の場所へ移設した。
見返りの榎(写真右)
1860年(万延元年)、長瀬塾で山田方谷に別れを告げた河井継之助は、この榎の下で何度も頭を下げ、長岡へ帰郷したといわれています。
高瀬舟 ※現地案内板より
高瀬舟は主に河川で用いられた平底の木造の舟のことで、江戸時代になると水路の整備とともに、制度化され、この時代の物資輸送に大きな役割を果たしてきました。江戸時代末期、板倉氏時代には山田方谷が藩政改革を進める上で、高瀬舟が欠かせない物資輸送手段でした。
谷川 ※現地案内板より
この谷川は備中松山城の外堀で橋を渡ると城内三の丸である。中之丁や石火矢丁などの武家屋敷は右山手に、左川手には御用商人の多かった本町と新町が並ぶ。文化二年頼山陽と菅茶山が訪れた正善寺、安政五年長州藩久坂玄瑞が、同六年長岡藩河井継之助が泊まった花屋もすぐそこにある。
藩校有終館跡は松山藩の藩校であり、山田方谷自身もここで学び、遊学の後には学頭(校長)を務めました。
安正寺は備中松山城主板倉家の菩提寺で、初代勝重から徳川幕府最後の老中勝静までの霊が祀られています。
山田方谷は藩政にあたるため、半月はこの御茶屋に居住しました。河井継之助が暫く寝泊りした場所でもあります。牛麓舎は方谷が有終館の学頭を務める傍ら、子弟教育のために最初に開いた家塾で、臥牛山(がぎゅう)の麓にあることからこの名がついたと言われています。
方谷駅名の由来 ※現地案内板より