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Last Updated: 27 August 2006
薩摩(鹿児島)です。加治屋町周辺に限定した史跡をご紹介します。ここ加治屋町は幕末明治に活躍したひとびとを数多く輩出したことで有名です。
以下、司馬遼太郎氏の『歴史を紀行する』より引用しました。
「それにしてもふしぎだな」
同行のTさんが、まっさおな錦江湾をながめながら、別な話題を出した。「この鹿児島にくると、日本のことを考えますね。つまり日本の来しかた、ゆくすえといったようなことを。これはどういうわけかなあ」
Tさんのおかげで、こんどの旅行の主題ができた。これを考えながら歩きたい。
西郷隆盛の従弟で幼い頃から西郷の影響を強く受けました。青年期には薩摩藩の精忠組に入り、藩の内紛騒動である寺田屋寺事件では危うく難を逃れたものの禁固三年の刑に処せらます。その後砲台の砲手となり、薩英戦争で火力の重要性を熟知した大山は、高名な江川太郎左衛門の兵学塾に学び、日本における砲兵の第一人者となります。戊辰戦争では大砲隊を率いて各地で戦い負傷しています。
明治6年に征韓論が起こり、鹿児島の私学校党との調停を命ぜられ帰国、そこで大山は西郷と直談判しますが説得することはできませんでした。西郷との間にどのような話合いが行われたかについて大山は誰にも語らず、いま尚その内容は分かっていません。その後の西南戦争では政府軍の指揮官として私学校党と戦い、西郷や郷里の友を敵にすることとなります。大山にとっては非常に辛い戦で、西南戦争で受けた精神的ダメージは大きく、その後鹿児島には帰らず、政治にも距離を置きました。内閣制度発足後は陸軍大臣、また、日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では満州軍総司令官をつとめ、「陸の大山、海の東郷」と評される程、指揮官としての名声を得ることになります。
四度目の体験は、幕末・維新にかけての倒幕と新政府樹立という、薩摩史上もっとも栄光にみちた場面になる。この大芝居の仲間は長州藩と土佐藩であったが、長州の革命活動はややヒステリカルであり、土佐藩の場合は藩主山内氏はうごかず、関ヶ原でとりつぶされた長曾我部侍(土佐郷士)が個人として幕末の騒乱に参加した。この三藩のなかで重鎮といえるのはむろん薩摩藩である。
藩内では洋式産業や洋式兵器を大規模に用意しつつ、それをうごかさず、実力による無言の威圧を幕府に加えつつ革命最後の段階 - 鳥羽伏見の戦い - でそれを用い、幕軍を潰走させた。
先般なくなった島津家の当主忠重氏(明治十九年うまれ)は、かつて「炉辺南国記」という回顧録を書き、そのなかで「もし薩摩人が昭和十年代の日本を担当していたなら太平洋戦争はおこさなかったでしょう」という意味のことを物やわらかな語り口で書いておられるのは、薩摩人の思考法をよく知ったことばというべきであろう。薩摩人は思考法だけでなく、日本人のなかでは例外といっていいほどの豊富な体験でそれを裏打ちしていた。
五度目の体験は、西南戦争である。
以後、薩摩人におけるその集団的威力は歴史から消え、あとは個人として日本に参加し、大正、昭和とつづき、いまは平均的日本人となってしまっている。しかしこの桜島のみえる国にはなお歴史の熱気 - あるいはにおいか - そういうものが、海の青、山のあらしのなかに立ちこめているようでもあり、そういう気体が、Tさんのいうようにわれわれ旅人をしてふと日本の来し方ゆくすえなどを考えさせるのかもしれない。
維新ふるさと館のある「加治屋(かじや)町」。加治屋町は、西郷隆盛や大久保利通をはじめ、数多くの明治維新の英傑を生んだ町です。維新ふるさと館では、音や光のあふれる空間ジオラマや、等身大のロボットなど、ハイテク技術を用いた展示方法で幕末維新史を体感できます。
下加治屋町生まれ。戊辰戦争に参加し、明治維新後は陸軍に入りました。西南戦争では政府軍として参加し、同郷である西郷と戦うことになってしまいました。明治36年(1903)に陸軍大将となり、日露戦争では第1軍司令官として鴨緑江から奉天会戦までを戦い抜きました。豪傑の猛将としても知られ、明治天皇と相撲をし容赦なく投げ飛ばしたと言う逸話もあるそうです。
司馬遼太郎著『坂の上の雲』に詳しく書かれています。
誕生記念碑が加治屋町の鹿児島市医師会検査センター前にあります。
文政10年12月7日(1828年1月23日)、明治維新の立役者西郷隆盛は、ここで長男として生まれました。西郷隆盛は同藩の大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び「維新の三傑」と称されています。このあたりは加治屋町と呼ばれ、下級武士の居住区でしたが多くの偉人を輩出しています。維新ふるさと館からも近く、幕末・維新のスポットになっています。大久保利通が幼少の頃から過ごした地から徒歩で1分程のところです。
幕末薩摩藩が生んだ2大英傑、熱情至誠の西郷隆盛と冷徹智略の大久保利通。安政5年(1858)の西郷と月照の入水事件に始まり(時代背景の説明は更に遡っている)征韓論での決裂までを描いた歴史小説。
天保元年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島郡高麗町に生まれましたが、間もなくここ加治屋町へ移っています。父は小姓役の下級藩士。少年時代は「郷中教育」の中で育ち、藩校の造士館では、先輩だった西郷とともに学びました。14歳で元服し、藩の記録所に勤めました。朱子学や国学に深い知識を持った人たちにかこまれ、大久保は仕事のあい間にここの諸先輩から学問の教えを進んで受けました。また理屈よりも実行を重くみる陽明学、蘭学や日本の地理、世界の動きのことなどを熱心に学んでいます。
安政6年(1859)、大久保利通は島流中の西郷隆盛達とともに精忠組という組織を作り、藩の政治に大きな影響を与え、文久3年(1863)には32歳の若さで御側役という重職に着きます。薩英戦争の後、大久保はヨーロッパの進んだ知識を政治に取り入れるために、英国に留学生を送ることに尽力しました。彼ら留学生の報告は、大久保が日本の方向性を考える上で大きな影響を与えています。大久保は、日本の政治を根本から立て直すために、西郷隆盛や討幕派の長州藩・公家たちと協力して倒幕計画を進めていきました。慶応3年(1867)、ついに幕府を倒し、明治維新を成立させるのです。
明治元年(1868)、新しい時代の始まりとともに都が京都から東京へ移ります。
明治10年(1877)、西郷隆盛を中心とした鹿児島の士族による西南戦争が勃発。大久保は懸命にこれを鎮めましたが、国のために共に歩んできた多くの友人を失うことになります。
西南戦争が終った翌明治11年(1878)、東京の紀尾井坂で不平士族に襲われ死亡。享年47歳。
『明治という国家』の中で司馬遼太郎氏は、
大久保利通は、才能、気力、器量、そして無私と奉公の精神において同時代の政治家から抜きん出ていた。こんにちにいたるまで日本の制度の基礎をつくった人間たちを、ただ一人の名で、代表せよといわれれば、大久保の名をあげます。
沈着、剛毅、寡黙で一言の無駄口もたたかず、自己と国家を同一化し、四六時ちゅう国家建設のことを考え、他に雑念というものが有りませんでした。
と書かれています。
大山巌(おおやまいわお )誕生の地