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西郷隆盛

西郷隆盛(さいごう たかもり) 1827年(文政10年)~1877年(明治10年)

1827年(文政10年)12月7日、鹿児島市加治屋町に生まれる。
1854年(安政 元年)藩主島津斉彬のもとで御庭方役となる。
1866年(慶応 2年)薩長同盟を結ぶ
1867年(慶応 3年)王政復古に活躍し政府参与となる。
1868年(明治 元年)戊辰戦争で東征大総督参与。4月、江戸城を無血開城する。
1873年(明治 6年)陸軍大将となる。11月、征韓論に敗れ帰郷。
1874年(明治 7年)私学校をつくる。
1877年(明治10年)西南戦争に敗れ、9月24日、城山で自刃(49歳)。

私学校跡

不平士族の反乱が相次いで起こる中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発にのって引き起こした暴動が西南戦争の始まりです。政府側首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。

私学校跡

私学校跡

私学校跡記念碑

私学校跡記念碑

西郷隆盛洞窟

西郷隆盛洞窟

西郷隆盛洞窟 - 西南戦争最後の司令部 -

現地の案内板より
1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。

西郷隆盛終焉の地

西郷隆盛終焉の地

西郷隆盛終焉の地 - 波瀾の道、ここに尽きる -

現地の案内板より
ズドン!ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m・650歩でついに途は閉ざされたのです。「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。1877年(明治10)9月24日のことです。西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が、2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に進めて以来、7ヶ月もつづいた「西南の役」が終わったのです。
熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散西郷以下の幹部は宮崎県北の可愛岳(えのたけ)を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。岩崎谷に銃声がやみ、西郷の死体発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷したということです。