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Last Updated: 29 May 2010
熊本藩士であり尊皇攘夷派の活動家であった宮部鼎蔵(みやべていぞう)文政3年(1820)~ 元治元年(1864)
宮部鼎蔵先生は、文政3年(1820)4月御船町上野2905番地で医師春吾と母ヤソの長男として出生。幼少の頃から文武を好み熊本の叔父宮部丈左衛門のもとで成長し、31歳で叔父の家を継ぎ肥後藩の軍学師範となる。徳川幕府の衰退と外国船の侵入で国防が叫ばれる時、宮部先生は藩の同志を始め長州の吉田松陰と共に全国の志士と謀り幕府を倒して新生日本の国つくりを画策された。これを阻止せんとする幕府の弾圧が激しくなった元治元年(1864)6月5日夜、宮部先生は京都の池田屋に同志を集めて協議中、乱入した新選組と戦って自害された。年45歳。新生日本に改まる3年前であった。弟春蔵先生も同年7月天王山で幕府軍と戦って自刃された。年26歳。兄弟の尊い死から141年、郷里の上野では宮部先生の彫像を建立して顕彰することに決し上野校区民の熱誠なる支援を受けて見事に完成した。春風秋雨時代は大きく変わっても、国事に斃れた兄弟の功績に対する郷民の追慕の念は変わらず、世にうるわしきことと讃えるべきである。
平成17年(2005)6月 宮部先生兄弟顕彰会
この鼎春園は、徳川幕府の末期、諸外国から通商を求めて進攻されてきたとき、幕府の暴挙による政治を改革するため、倒幕運動の先き駆けとなって活躍した勤王の志士達の指導者だった宮部鼎蔵先生の偉業をたたえるため、先生の弟春蔵先生二人の「鼎」と「春」をとって名付けた顕彰の公園です。顕彰碑に並ぶ碑は、鼎蔵先生が意を決して京都に出立される時子孫のため遺された「孝忠」の碑と向かって左の歌碑は鼎蔵先生の
「いざ子供 馬に鞍おけ九重の みはしの桜 散らぬそのまに」
右の歌碑は春蔵先生の
「故郷の 花を見すてて飛ぶ田鶴は 雲井の空に 羽をやうつらむ」
となっています。
顕彰碑は大正2年(1913)に県内の各界から協力で建てられ、碑題は細川氏15代細川護成公の書で、撰文者は天草大矢野町出身の大学者竹添進一郎(井々)氏、書は大家といわれた末廣櫓山氏です。
このあたりを茶屋元といい鼎蔵の生家跡がある。おおきなカシの木の下に出産の井がこけむして残っている。鼎蔵は名を増実(ますざね)といった。代々医家であったが、おじの宮部丈左衛門の家をついで山鹿流軍学をおさめ、30歳の時熊本藩の軍学師範となった。長州藩の吉田松陰とは仲のいい友人であり、東北諸藩を遊歴して諸国の志士と交遊し、尊王攘夷の信念を深くした。文久元年(1861)12月、清川八郎らの来熊を転機に「孝忠」の遺訓を家に残し或いは熊本に、或いは京都に、尊王攘夷の運動に活躍するが、文久3年8月の政変で七卿とともにいったん長州に落ちた。やがて京都に潜入、翌元治元年(1864)6月5日三条小橋池田屋で同志と会合中、新選組に踏み込まれ奮戦して自刃した。45歳であった。鼎蔵には春蔵という弟がいた。兄と同じく勤王家で、翌元治元年7月真木和泉とともに幕府軍を向こうにまわして戦い、天王山(京都)で自刃した。
6月5日の早暁、古高俊太郎が新選組に捕らえられ、そのすさまじい拷問に耐えきれず計画を自白します。宮部鼎蔵はこの頃、古高俊太郎宅(桝屋)に寄宿していましたがこの朝は不在で難を逃れています。同日亥の刻(22時頃)過ぎ、新選組が志士会合中の池田屋に踏み込み戦闘となり、宮部鼎蔵は身体に数ヶ所の傷を受け、進退極まって階段の下で屠腹して果てました。
浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた新選組は元治元年(1864)6月5日早朝、武田観柳斎らにより桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。土方歳三による激しい拷問により志士密会と大謀議を自白。同日夜半、池田屋にて会談中の尊王攘夷派志士たちを新選組・近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助らが襲撃。これにより、宮部鼎蔵、吉田稔麿、松田重助ら優れた人材が闘死もしくは捕縛され失われた。また、この事変が期となり長州藩が挙兵、上洛。禁門の変がおこる。
宮部鼎蔵先生彫像碑 ※現地案内板より