昔から大阪では、「京おんなは好いても惚れぬ」といわれてきたが、あずまえびすは、義仲にせよ、頼朝にせよ、義経にせよ、尊氏にせよ、この手であしらわれてきたのかもしれない。家康のみは京都と絶縁して江戸で政権をたてた。これらの権力の狂宴のなかでは秀吉と長州人のみはもっとも好かれた。しかし好かれても惚れられたかどうか。豊臣家の滅亡と運命を共にした京都人はいなかったし、また長州人に心中立てをして革命の火をくぐって死んだ京都人もいない。しかし長州人に拍手を送った幕末の京都人の気概と好みは、いまも選挙で革新系候補に多数の票を送り、知事も市長も社会党というあたりにさえざえと伝統を残している。
かといって革新勢力は甘ったれるわけにはいくまい。この日本唯一の都会人(東京も大阪も各県の植民地にすぎぬとすれば)ともいうべきわが市民の中には、「好いても惚れぬ」という風雪千年の自我が確立しているのである。
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Last Updated: 10 September 2006
元冶元年(1864)6月5日に起きた「池田屋騒動」は、長州藩の定宿であった池田屋に集まっていた尊王攘夷派の浪士たちを新選組が襲ったという事件です。これは後に新選組の名を世間に轟かすことになりました。尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助ら(「殉難七士」)の実力者が戦死、大打撃を受けました。この事件で明治維新が遅れたともいわれています。
司馬遼太郎氏著:『新選組血風録』に、池田屋突入の情況が以下のように記されています。
内側ですでに待機していた山崎はクグリの桟をはずし、一同を入れながら、「浮浪の者二十余人、いずれも二階です」
「ご苦労だった。で、亭主」近藤はよんだ。「会津中将様御預 新選組である。御用のすじがあってあらためる」
いうなり土間から床、床から階段へとびあがり、五、六段駆けあがりざま、キラリと刀をぬいた。このときの刀が、二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がこれにつづく。
武市瑞山(たけちずいざん)
文政12年9月27日(1829年10月24日) ~慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)
土佐藩士、土佐勤王党の盟主。通称:武市半平太(たけちはんぺいた)
坂本龍馬の遠い親戚にあたります。美男子であり「春雨じゃ濡れて参ろう」の月形半平太(行友李風作の戯曲に登場する長州藩勤王の志士)のモデルとなったともいわれます。文久2年(1862)、土佐藩参政の吉田東洋を那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助らに指示し暗殺。この罪で投獄後、岡田以蔵の自白が決定打となり老公山内容堂に慶応元年(1865年)閏5月11日、「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられました。切腹には腹一文字の他に十文字に切る法と横三文字に切る法がありますが、非常に困難と言われる横三文字の切腹を成し遂げました。武市半平太に関しては司馬遼太郎氏の『人斬り以蔵』に詳しく著されています。
辞世の句
ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
現地案内板より
川の西方の堀割を一之船入という。高瀬川は慶長16年(1611)頃、角倉了以が開いた運河でここを通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所を船入といった。角倉氏は保津峡の開発等数々の土木工事に成功しており、京都の中心部に物資を運びいれるためこの川を開いたもので、このあたりを起点として鴨川の水をとり入れ鴨川に平行して十条まで南下し、さらに鴨川を横断して伏見に通じていた。底が平たく舷側の高い高瀬舟が盛事には百数十艘が上下し、大阪などの物資を運びいれた。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多くの問屋が立ち並んで賑わい、船入りはこの一之船入をはじめ数箇所に設けられた。
明治以後高瀬川は舟運の目的を失ったが、両岸に柳を植えた景観は京都の情緒の大きな要素となっている。一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。
現地案内板より
古高俊太郎は、文政12年(1829)、近江国大津に生まれた。父・周蔵は近江国栗太郡物部村古高の出で、大津代官石原清右衛門に仕え、のち山城国山科毘沙門堂門跡の家臣。俊太郎も同門跡の近習となり、和歌を烏丸光徳に学び公家との交流を深めた。梅田雲浜の門で勤王思想を学び、勤王志士とも交わった。同士の一人、湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子となり、桝屋湯浅喜右衛門と変名して、この地に「桝屋」を構えた。密かに武器を集め、同士と連絡を取って援助をするなど、多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていた。
しかし元治元年(1864)旧暦6月5日早朝、新選組に捕縛され壬生の屯所で過酷な拷問を受けたとされる。これが三条小橋の旅館・池田屋における「池田屋事件」の端緒となったと言われる。
元治元年(1864)禁門の変に際し洛中は大火となり7月20日、六角獄舎で処刑された。享年36歳。
明治24年(1891)、特旨を以って正五位を贈られた。
本間精一郎
本間精一郎(ほんませいいちろう)天保5年(1834)~文久2年(1862)
越後出身、尊王攘夷派の志士であったが、尊王攘夷派の同士の反感を買い、岡田以蔵・田中新兵衛らに暗殺され梟首された。
高山彦九郎
高山彦九郎は延享4年(1747)に上野国新田郡細谷村、現在の群馬県太田市細谷町に農民だった父、彦八正教の次男として生れました。江戸時代中期の勤王思想家で、吉田松陰や久坂玄瑞などその後の幕末の志士たちに大きな影響を与えた人物だったといわれています。彦九郎は尊皇の旅をし全国を回りますが、久留米で自刃してしまいます。墓は久留米の遍照院(福岡県久留米市寺町)にあります。写真は彦九郎が京都を出入りする度に皇居の方角を向き、ひれ伏す姿を再現しているそうです。
高山彦九郎は吉村昭氏の 『冬の鷹』 に登場します。この小説は解体新書の主幹翻訳者である前野良沢(まえの りょうたく)と杉田玄白(すぎた げんぱく)の全く対照的な生き様を描いた作品です。高山彦九郎は前野良沢と親しかったそうです。
壬生寺
この寺は「壬生狂言」で有名な庶民的なお寺です。平安時代、三井寺の僧がこの地に地蔵菩薩を安置して堂を建てたのがこの寺のはじまりです。延命・厄除けの地蔵菩薩として信仰が厚く、節分の時には大勢の参拝者で賑わうそうです。また、境内には壬生塚があり、近藤勇の胸像や新選組隊士の供養塔、芹沢鴨らなど隊士の墓があります。
壬生寺
本能寺 ※現地案内板より
法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日隆上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。本寺は、転生10年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折、30余りの
宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。
【由緒沿革】
當山の宗名は「法華宗」くわしくは「妙法蓮華経宗」という。
宗祖日蓮大聖人の滅後133年開基日隆聖人が法華宗の正義を再興せんが為、応永22年(1415)布教の根本道場として創建された。史上有名な「本能寺ノ変」は、天正10年6月2日、一代の英雄信長も秀光の不意襲撃を受け、当山の大伽藍と共に一辺の煙りと化した。時の本能寺は四条油小路に在り、秀吉の代、寺領換地となり現在地に移転、信長の第三子信孝の願いにより、当山内に信長公廟所をまつる。
現本堂は創建以来の第七建立、建築様式は鎌倉室町時代の粋を集め、およそ10ヶ年の歳月を費やして昭和3年に完成、大正昭和期に於ける我が国の代表的木造寺院建築といわれる。 -大本山 本能寺
武市瑞山寓居跡