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Last Updated: 20 March 2010
(注)旅館「寺田屋」(京都市伏見区)の建物が再建されたものだったとの可能性が指摘された問題で、京都市は、調査の結果「当時の建物は焼失したと考えるのが妥当」との見解を発表しました。また同施設に対して、観光客らに誤解を与えることがないような対策を取ることを要請しています。(2008年)
寺田屋事件、文久2年(1862)薩摩藩尊皇派らが島津久光によって粛清された事件。
薩摩九烈士とは闘死(もしくは切腹)した尊王派の有馬新七、田中謙助、橋口伝蔵、柴山愛次郎、弟子丸龍助、橋口壮介、西田直五郎、森山新五左衛門、山本四郎です。
薩摩の大山巌、西郷従道、篠原国幹らは説得に応じて投降しました。吉村寅太郎は土佐に送還され投獄されています。
道島が田中の面部を斬りつけた時、新七は猛然としておどり上がった。刀をぬいて道島に斬ってかかった。道島は示現流の名手、新七は叔父坂木六郎から神影流を授けられて中々の達人である。双方一歩も退らず、ハッシ、ハッシと斬り合っているうち、新七の刀は鍔元(つばもと)からおれて飛び散った。しかし、新七はひるまない。かえって道島の手許にふみこみ、道島を壁におしつけた。もみ合っているところに、橋口壮助の弟吉之丞が刀を抜きはなってそばに来て、新七を助けようとしたが、はげしくもみ合っているので、助勢のしようがない。うろうろしていると、新七はどなった。
「おいごと刺せ! おいごと刺せ!」
吉之丞はこの時やっと二十歳だ。逆上しきっている。
「チェーストー!」と大喝して、渾身の力をこめて、つかも通れと、両人を串ざしに壁に縫いつけた。これが新七の最期であった。壮齢三十八。
以上、海音寺潮五郎氏の
幕末動乱の男たちより引用しております。
寺田屋の事変は維新史上の大悲劇である。この時斬られたり後に切腹させられたりした者九人、討手の方の死者一人、重傷者三人、軽傷者二人であったのだが、むざんであったのは、討手に行き向かった九人のうち五人まで、誠忠組の同志だったことだ。豆を煮るに豆がらをもってしたのである。惨烈というもおろかである。刻薄無慚(むざん)である。
さらにいやなのは、この事変のあと始末だ。田中河内介、その子瑳磨介、千葉郁太郎(河内介の甥)、島原藩士中村主計(かずえ)、秋月藩士海賀宮門の五人は、朝命で薩摩藩があずかることになった。薩摩でこれを、寺田屋組の二十一人とともに藩の汽船で国許に送ったが、その船中で、五人を斬殺して、死骸を海に捨てたのだ。殺させたのは、監督のために乗りこんでいた四人の目付であり、殺したのは寺田屋の同志であった。この命令が久光とその側近から出ていることは言うまでもない。残酷、無恥、いうべきことばを知らない。薩摩維新史上の大汚点である。
以上、海音寺潮五郎氏の
幕末動乱の男たちより引用しております。
慶応2年(1866)、坂本龍馬の寺田屋遭難で知られる事件は、宿泊していた龍馬を伏見奉行の捕り方が捕縛もしくは暗殺しようとした事件です。
史跡 寺田屋