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Last Updated: 5 May 2010
慶応4年(1868)1月3日~6日(1月27日~30日)、戊辰戦争の緒戦となった戦闘。
慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は大政奉還を建白、しかし慶喜は天皇の下で諸侯会議の首班になる構想を持っていた。これに対し薩摩藩など倒幕派は12月9日に王政復古の大号令を発し、徳川慶喜に辞官納地を要求したが、松平春嶽らが慶喜を擁護していた為、薩摩の思うようには進まなかった。
この頃江戸では薩摩藩が旧幕府に対して挑発的な行為を繰り返していたが、これを取り締まろうとしていた庄内藩等が12月25日、遂に江戸薩摩藩邸を襲撃し焼討するという事件へと発展する。この報が大坂城の旧幕府幹部に伝わり、旧幕府は朝廷へ討薩を上表し、慶応4年(1868)京へ向けて進軍を開始する。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽へ、会津藩・桑名藩の藩兵及び新選組などは伏見へと進んだ。兵力数で勝る旧幕府軍であったが、各地で苦戦する。
1月6日夜、慶喜が大坂より江戸へ退却すると旧幕府諸藩も各自領へと撤退した。7日には朝廷より慶喜追討令がだされ、旧幕府は朝敵とされた。これにより多くの藩が旧幕府を見限ることとなるが、最後まで旧幕府として戦うもの達と新政府の間でこの後、上野戦争、北越戦争、会津戦争、箱館戦争として戊辰戦争が展開してゆく。
江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝舟など、千数百隻にもおよぶ舟運で賑わった伏見港の中心がこの京橋付近です。角倉了以(すみくらりょうい)による高瀬川の開削(かいさく)で、洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。ここから蓬莱(ほうらい)橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠(はたご)が軒を連ねていました。江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わっていました。橋の南詰には三十石船のように運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、人足、駕篭(かご)、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。
幕末の慶応4年(1868)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここ伏見御堂を宿陣として戦いました。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。
伏見は平安時代には鳥羽と並ぶ貴族の別荘地帯であったが、都市として繁栄したのは、豊臣秀吉がこの地に伏見城を築き、城下町と伏見港を整備してからである。江戸時代には三代将軍徳川家光の時に豊臣ゆかりの伏見城を完全に壊し、寛永元年(1624)に富田信濃守の屋敷のあった場所に伏見奉行所を建設した。その場所は現在の桃陵団地の敷地で伏見城の跡地への入口と港を監視する位置にある。
明治維新の時(1868)幕軍のたてこもる伏見奉行所は、官軍の攻撃により焼け落ちた。明治時代以降、陸軍の土地となり、工兵隊の基地になっていた。第二次世界大戦終了後、米軍に接収されていたが日本に返還された後、市営住宅が建設され、今日にいたっている。
江戸時代は宮前町と称し、御香宮境内地の一部として扱われていた。「鳥羽・伏見の戦い」の時には通りを挟んで神社には薩摩藩を中心に官軍が、一方伏見奉行所には、幕府の伝習隊、会津・桑名の両藩そして新選組等の幕軍が陣を構えて伏見の戦いの主戦地となった。ここが近代日本の幕開けの舞台となったところのひとつである。
御祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇など九柱を祀る。社伝によれば、貞観4年(862)境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので「御香宮」を賜った。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いに、当社は薩摩藩の陣営となり、大手筋をへだてて南の伏見奉行所の幕府軍と戦いましたが、幸いにして戦火を免れました。
以下、司馬遼太郎氏の『新選組血風録』より引用しました。
伏見における薩軍の砲兵陣地ほど理想的な戦術位置を占めた例は、戦史にもすくないであろう。御香宮のすぐ東隣に、小高い丘(雲竜寺高地)がある。松におおわれている。この丘に砲をひっぱりあげて、放列を敷いた。すぐ眼下が、幕軍陣地の伏見奉行所である。撃ちおろせば百発百中であり、幕軍側から砲撃すれば丘の上の松林にさえぎられて、目標をさだめにくい。たとえ、砲弾を丘の上に射ちこんでも、松にあたってむなしく破裂する公算が大きかった。
江戸時代はじめ、この近くに薩摩藩邸が置かれ、薩摩藩主・島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天が当寺に祀られていたことから、1615年に薩摩藩の祈願所と定められ、大黒天を本尊として、寺名も大黒寺と改められた。通称「薩摩寺」とも呼ばれた。本尊・秘仏大黒天は、金張の厨子に安置された小さな像で、60年に1度、甲子(きのえね)の年に開帳される。幕末に西郷隆盛や大久保利通などが国事を論じたという一室があるほか、明治維新の志士の遺墨等を所蔵する。境内には、西郷隆盛が建てたという、有馬新七ら寺田屋事件で犠牲となった九烈士の墓碑をはじめ、伏見義民の文殊九助(もんじゅきゅうすけ)、木曽川治水工事の犠牲となった薩摩藩家老・平田靭負(ひらたゆきえ)の墓、また「金運清水」と命名された井戸がある。
※伏見義民(天明義挙)、天明5年(1785)文珠九助など7名が伏見奉行小堀政方の悪政に抗議、幕府に直訴をし伏見町民の苦難を救った義挙。直訴は成功し、小堀政方は罷免されたが、九助ら7人も相ついで獄死した。
慶応4年(1868)、鳥羽伏見で敗走した旧幕府軍は淀城に籠もろうとするが、淀藩は門を閉ざし幕府軍の入城を拒否した。淀藩は譜代であり、当然この戦では旧幕府方であった。この裏切り行為は鳥羽伏見の戦いにおける旧幕軍敗北の要因のひとつになったといわれている。
伏見口の戦い激戦地跡 ※現地案内板より