(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 23 July 2011
二本松薩摩藩邸跡(薩長同盟は京都市上京区の小松帯刀(こまつたてわき)邸で締結されたといわれています)と、徳川慶喜が上洛中の重臣を招集し、大政奉還を諮問した二条城を紹介します。
此付近薩摩藩邸跡(このふきんさつまはんていあと)
現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島)藩邸があったところである。
京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久二年(1862)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、五千八百五坪(約一万九千平方メートル)、九棟の建物と多くの土蔵が立ち並んでいた。
薩摩藩は、鎌倉時代以来の名家島津氏を藩主とする外様の雄藩で、石高は約七十七万石。幕末に藩政改革に成功してから中央政局に発言力を強め、公武合体運動を展開、ついで長州藩と同盟して武力討幕に転じ、幕末、維新の政局の主導権を握った。藩邸はこうした活躍の根拠地であった。
京都市
薩長同盟について、司馬遼太郎氏の『この国のかたち(五)』より以下引用しご紹介します。
慶応二年正月十日、桂小五郎(木戸孝允)ら長州藩士一行は京都・相国寺門前の薩摩藩邸にひそかに入ります。当時、薩摩と長州は薩長同盟のくだりを思いだしてみると、とてもそんな同盟ができあがるような情勢にはありませんでした。その前々年には蛤御門ノ変で長州軍は薩摩と会津の連合軍に完膚なきまでに敗れ、薩摩とは犬猿の仲になりました。長州は「朝敵」になり、幕長戦争がはじまります。長州は孤立無援で滅亡の寸前でした。
その薩長が第二次長州征伐がやがてはじまるこの年、密かに秘密同盟を結ぶのですが、桂からすれば積年の恨みを抱く薩摩とおいそれと同盟をという心理にはありませんでした。
桂は、ただ仲介人の竜馬の言葉だけを信じて危険きわまりない京の都に入ったのです。会談中、西郷は終始自分の意見をいわず、いわば無言でした。桂は失望し、屈辱も覚え、これ以上ここにいることは同藩の者たちへの裏切りになると思い、辞しました。
竜馬がこの同盟について西郷に言ったことは、ただひとことでした。
「長州が可哀そうではないか」
西郷ははげしく動かされ、桂をよびにやって、一挙に同盟についての会談に入りました。
二条城は、1603年(慶長8年)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営し、三代将軍家光が、伏見城の遺構を移すなどして、1626年(寛永3年)に完成したもので、家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻など、いわゆる桃山文化の全貌を見ることができます。
1867年(慶応3年)十五代将軍慶喜の大政奉還により、二条城は朝廷のものとなり、1884年(明治17年)離宮となりました。その後、1939年(昭和14年)に京都市に下賜され、1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産に登録されました。
1867年(慶応3年)10月、15代将軍慶喜が、諸藩の重役を集め、大政奉還を発表し、徳川幕府の幕を閉じた歴史的な部屋です。
武家風書院造の代表的な御殿建築で、遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が東南から西北にかけ雁行に並んでいます。建築面積は3,300平方メートル、部屋数は33、畳は800畳余りあります。各部屋の障壁画は狩野派の手によるもので、部屋の目的に応じて描かれています。また欄間の彫刻、飾金具、長押(なげし)に打たれた花熨斗形(はなのしがた)の釘隠しなどは、金飾あざやかに豪華を極めています。また、御殿東北には、台所・お清所(おきよどころ)があり、いずれも重要文化財に
指定されています。
二の丸庭園は、古来からの造庭術にしたがい、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した書院造庭園で、小堀遠州の作と伝えられています。庭は、1626年(寛永3年)、池の南側に後水尾天皇の行幸御殿が
建てられた際に改造されたといわれており、主に大広間、黒書院、行幸御殿の三方向から見られるよう工夫
されています。色彩に富んだ大小さまざまな石組にあらわれた力強さは、豪壮な城郭建築とよく調和しています。
本丸は、1626年(寛永3年)三代将軍家光の命により増築されたものです。もとは、五層の天守閣が高く
そびえ壮麗を誇っていましたが、1750年(寛延3年)に雷火により焼失、また1788年(天明8年)には、大小による類焼で本丸内の殿舎をもなくしました。
現在の建物は、京都御苑内にあった旧桂宮御殿を1893年~94年(明治26年~27年)にわたり、ここに移し建てられたものです。宮御殿の遺構としては完全な形で残っている貴重なものであり、重要文化財に指定されています。(内部非公開)
本丸御殿南側にある庭園は、明治時代に作庭されたもので、天守閣跡は、この庭園の西南隅にあります。
現地案内板より