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Last Updated: 10 September 2006
『寺田屋』です。文久2年4月23日(1862年5月29日)、寺田屋騒動がありました。また慶応2年1月23日(1866年3月8日)には、坂本龍馬襲撃事件もおこっています。
(注)旅館「寺田屋」(京都市伏見区)の建物が再建されたものだったとの可能性が指摘された問題で、京都市は、調査の結果「当時の建物は焼失したと考えるのが妥当」との見解を発表しました。また同施設に対して、観光客らに誤解を与えることがないような対策を取ることを要請しています。(2008年)
寺田屋と書かれた軒提灯が吊るされています。もとは船宿で現在でも宿泊できます。
※京阪中書島駅より徒歩5分、市バス中書島より徒歩1分。【見学時間:午前10時~午後3時50分】
寺田屋の女将お登勢は明治10年、48歳でこの世を去るまで約30年間に渡って女将をつとめ、その100年忌に寺田屋保存会によってお登勢明神が庭に建てられました。
寺田屋の二階
二階の掛け軸です。この画は、女将お登勢が龍馬に奨めて、町の画家に描かせたものだそうです。円山公園の銅像はこの肖像画をもとに作られたとか。
おりょうが急を知らせるために駆け上がった裏階段と入浴していた風呂場
薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では、入浴していたおりょうは風呂から飛び出して裸のまま龍馬に急を告げ、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、龍馬の危機を救うという意外に活発な女性でした。美人で教養の持ち主だったおりょうは、海援隊士らに姉さんと慕われたそうです。土佐藩大監察佐々木高行は日記には、「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタリ」とあります。ちょっとつかみどころのない女性だったのでしょうか。龍馬の死後、三吉慎蔵のもとにいましたが、明治元年、龍馬の高知の実家に移りました。しかしその生活は一年ほどで、それからは京都に戻っています。やがて西郷隆盛らを頼って東京に出、明治8年に旧知の商人である西村松兵衛と再婚し、西村つると名乗りました。晩年は横須賀で暮らし、貧窮の中で明治39年に亡くなっています。享年66歳でした。
坂本龍馬 避難の材木小屋跡 ※現地案内板より
慶応2年(1866)1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告げたので、龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて豪川沿いの伏見薩摩邸に駆け込みました。この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は豪川の左岸南方にあったといわれています。
藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を揚げた船を出して龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙ににも記されています。龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩邸の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向かいます。これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。
※坂本龍馬避難の材木小屋はこの石碑の建つ川の右岸より橋を東に渡った川の左岸南方の辺りにあったと伝えられています。
寺田屋騒動(薩摩藩粛正事件)文久2年4月23日(1862年5月29日)
上洛した島津久光があくまでも公武合体を推進することに失望した薩摩藩尊王派の有馬新七らが、京都所司代襲撃のため寺田屋に集結しました。島津久光はこれを許さず、剣術に優れた九名の鎮撫使、上床源助、江夏沖左衛門、大山綱良、鈴木昌右衛門、鈴木昌之助、道島五郎兵衛(闘死)、奈良原繁、森岡善助、山口金之進を派遣し粛清しました。この結果、久光は朝廷より絶大なる信頼を得ることになります。
九烈士とは闘死した尊王派側の有馬新七、田中謙助、橋口伝蔵、柴山愛次郎、弟子丸龍助、橋口壮介、西田直五郎、森山新五左衛門、山本四郎です。
二階には大物の尊王派である大山巌、西郷従道、三島通庸、篠原国幹、永山弥一郎らが居ましたが、説得に応じ投降します。後に活躍する彼らが投降せず闘死していたなら、歴史は大きく変わっていたことでしょう。
寺田屋