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Last Updated: 4 December 2011
井上聞多(のちの馨)というひとがあった。
このひとは機略家としては高杉晋作以上だったかと思われるふしもあるが、しかし高杉はうまれつきの器量がスターであったし、政治的スターとしての演技力も大衆動員力も十分にあったから、その盛名のかげに井上の存在は翳っている。もっとも井上自身は自分の分を心得ていて、維新後は伊藤博文の脇役になり、生涯脇役であることに甘んじつづけていた。
(中略)
この井上聞多が、湯田のうまれである。
井上家は、幕末の奔走家のなかでは上層の階級といってよく、百石取りの堂々たる上士であった。
屋敷も、湯田にあった。萩城下の上士でなく、要するに在郷の藩士である。
以上、『街道をゆくシリーズ 甲州街道、長州路』より引用しました。
この公園は、明治維新の大業推進の功があった井上馨候の生誕地で、井上公園と呼ばれ親しまれていましたが、後に区域が広がり、地名をとって高田公園となりました。
園内には、井上馨候の銅像や、文久三年(1863年)の政変で、京都から長州に落ちのびた三条実美ら七卿が寄宿した何遠亭(かえんてい)跡や、かん難辛苦のなかに国事につくした功績を記念して建てられた七卿の碑があります。
井上聞多は吉田松陰の松下村塾には学んでおりません。江戸遊学中の文久2年(1862)には高杉晋作や久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加しました。文久3年(1863)には山尾庸三・伊藤博文・井上勝・遠藤謹助とともに英国へ密航しましたが、そこで欧米諸国の国力の違いを痛感し、下関での外国船砲撃事件を知ると伊藤と二人で(山尾・井上勝・遠藤は英国に残した)急遽帰国します。
『長州ファイブ【DVD】』
以下、海音寺潮五郎氏の『悪人列伝 近代篇』より引用しました。
それまで飛ぶ鳥おとす勢いであった長州藩の威勢は一時におちた。宮門警衛の任を解かれ、悲憤しつつ、彼らの朝廷内における同志であった三条実美以下の七卿を奉じて京を退去して国許にかえった。維新史で八月十八日政変、七卿落の名で知られた事件である。長州藩はこの雪冤のために度々使者を上京させて哀訴したがかえりみられない。長州の壮士らは他藩の同志と協同して、クーデターを企てた。祇園祭の宮宵の夜、三条小橋の定宿池田屋に諸藩の同志と会して、火を御所と中川宮の邸に放ち、宮と会津容保の参内するのを要撃しようという計画。これが未然に偵知されたので、新選組の出動となり、有名な池田屋事変がおこる。薫と伊藤が横浜に帰着したのは、この池田屋事変の五日後だから、二人は知らなかっただろうと思うが、当時は大坂や神戸と横浜の間はよく外国汽船が往復していたから、あるいは耳にしたかも知れない。ともあれ、長州としてはどうしても存念を朝廷に達することが出来ない。ついに兵を京都に出し、武力を背景にして切願しようということになり今やその出発直前であった。
以下、アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新』
より引用しました。
七月二十一日、われわれはW・M・ダウェル艦長のコルベット型艦バサロ号とバックル中佐の砲艦コーモラント号にそれぞれ分乗して出発し、豊後水道を通って、二十六日の日没後に姫島沖に投錨した。われわれの乗ったコーモラント号は浅瀬に乗り上げたが、同艦の第二斜檣を打ちこわして、ようやく再び離礁させることができた。
翌朝早々、われわれは二人の日本の友人伊藤と井上(井上は当時志道(しじ)の姓で通っていた)を上陸させたが、八月七日に周防(すおう)沖の笠戸島で両人と再会することをあらかじめ約束しておいたのである。この航海の途中で、私は彼らと大いに語り合った。また、私の教師中沢見作(小笠原の家来であったが、主人の不興を被った結果、生計の道を捜す必要に迫られていた)の助力を得て、両人と私たちとの間で、ラザフォード卿の覚書をどうやら日本語に翻訳することもできたのであった。この二人は、甲板のない舟に乗って陸へ漕ぎ渡り、周防の富海(とのみ)に上陸する予定だった。八時には、二人が海岸から去って行くのを見た。中沢の考えでは、彼らは十中の六、七まで首をはねられ、二度と会う機会は絶対にあるまいとのことだった。
元治元年(1864)、井上聞多と伊藤の二人が海路上陸した際、身を寄せたのがこの飛船問屋入本屋でした。
今から六百年ばかり前、山口で大内氏が栄えていたころ、秋穂街道は秋穂の港から山口に通じる主要街道でした。この道は別名御上使道(ごじょうしみち)とも呼ばれ、秋穂渡瀬(あいわたせ)をわたって此処から山口の町に入りました。全国各地から山口に登城した侍たちは、ここまでくると狩衣、直垂の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをして山口に入りました。そこでこの橋の名を袖解橋というようになりました。
井上聞多はここ袖解橋付近で俗論党に襲われ瀕死の重傷を負いますが、所郁太郎の手術を受け、一命をとりとめます。
高田公園 井上馨(聞多)像写真には、所郁太郎の顕彰碑が写っています。以下、顕彰碑の内容です。
所郁太郎は天保九年、美濃国赤坂に生まれた。長じて京都に出、医学を学び、さらに大坂の適塾で西洋医学・洋学を修め、学・術ともに精進した。京都で医院を開いたが、長州藩の京都邸の近くにあったので、藩の邸内医員を委嘱された。尊王の志が篤く、長州藩士と深く交わって時勢を通観し、医業をやめて国事に尽くそうとし長州に来往した。下関の攘夷戦にも参加し、七卿西下の降してはその医員に命ぜられた。
元治元年九月、井上馨の袖解橋の遭難にはただちに馳せつけ、数か所の刀傷を五十数針縫い合わせる大手術をなし、瀕死の井上を奇跡的に救った。後年の井上の業績を思うとき、この所の治療を忘れてはならない。
慶応元年正月、高杉晋作が兵を挙げ、藩の俗論党と戦ったとき、所は迎えられて遊撃隊の参謀となり、高杉に協力した。
その後幕府の長州征伐に備えて、軍を進めようとした時、にわかに病んで、吉敷の陣中で歿した。二十七歳であった。明治になり特旨をもって従四位を贈られた。
井上聞多は所郁太郎の手術を受け奇跡的に一命を取り留めます。本ページの冒頭に司馬遼太郎氏の文章を引用しておりますが、その後は高杉晋作らの脇役として倒幕のために活躍しました。明治維新後は財政面において官界で活躍しましたが、明治6年(1873)尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職しました。
以下、海音寺潮五郎氏の『悪人列伝 近代篇』
より引用しました。
ぼくが井上馨を悪人列伝にとり上げたのは、維新政府の藩閥を土台とする貪官汚吏(どんかんおり)の代表者としてである。彼ほどのことはなくても、当時の高官連には実にこんな人物が多かった。西郷南洲がもう一度維新をやり直す必要があると言っていたのは、そのためであったと、ぼくは思っている。国会開設の運動、自由民権の運動がおこったのも、ここにその最も大きな原因がある。
馨の生涯を眺める時、文久二年から元治元年までの三年間が最も美しい。張り切った男性の美がある。頭も切れるし、意気も昂揚し、心事も清潔だ。この期間の彼は天才児であり、英雄であるといってよい。それほどの彼が維新運動が一段落し、新政府の大官となると、こうもきたなくなってくる。人間は生涯天才であり、英雄であり、清潔であることはむずかしいものと見える。
高田公園 山口市湯田温泉