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Last Updated: 26 May 2007

以下、『司馬遼太郎の日本史探訪』より引用しました。

江戸時代から今に至るまで、大阪は町人の町、商人の町。自由闊達な雰囲気がみなぎっている。船場北浜、御堂筋のすぐ裏手に、近代的なビルに囲まれ今も残る町家風のたたずまい、緒方洪庵の適塾は、昭和二十年の大空襲にも奇跡的に焼失を免れ、往時の姿をとどめている。
緒方洪庵、号を適々斎という。「おのれの心に適(かな)うところを楽しむ」心境を意味する。ここから、洪庵の塾を「適々斎塾」あるいは略して、「適塾」と呼ぶようになった。明治維新からさかのぼること三十年、天保九年(1838)、洪庵二十九歳の時から五十三歳に至る二十四年間にわたって、適塾は続いたのである。当時日本一栄えた蘭学塾とはいいながら、造り・たてつけはけっして上等とはいえない。手狭な塾は、若者たちの熱気で、むんむんしていたことであろう。中庭を隔てて洪庵の使った書斎があった。洪庵その人を思わせる端正なたたずまいである。吉田松陰の松下村塾を、思想教育の塾とすれば、適塾は、いわば語学教育・実技教育の塾であった。

緒方洪庵の適塾

所在地 大阪市中央区北浜3丁目3番8号
TEL 06-6231-1970
敷地面積 464平米 木造一部2階建
開館時間 10:00~16:00
休館日 毎週日、月曜日、祝日、年末年始(12/28~1/4)

地下鉄御堂筋線、淀屋橋駅で降り徒歩で約5分。ビジネス街の中心にあります。

適塾

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司馬遼太郎著 『対訳 21世紀に生きる君たちへ』 に併録れている「洪庵のたいまつ」より

世のためのつくした人の一生ほど、美しいものはない。
ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。
緒方洪庵のことである。
この人は、江戸末期に生まれた。
医者であった。
かれは、名を求めず、利を求めなかった。
あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。
そういう生涯は、はるかな山河のように、 実に美しく思えるのである。
(・・・後略)

適塾

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緒方洪庵(おがたこうあん)

文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日)
緒方洪庵は備中足守(岡山市足守)に生まれました。
文政8年(1825年)大坂に出、その後長崎での蘭学修行などを経て天保9年(1838年)に大坂・船場に蘭学の私塾『適塾』(適々斎塾)を開き、弘化2年(1845年)現在の場所にある商家を購入し、大いに発展させました。適塾における教育の中心は蘭書の会読でしたが、この予習のために塾生が使用した辞書がヅーフ辞書長崎出島のオランダ商館長ヅーフがハルマの蘭仏辞書に拠って作成した蘭和辞書)であり、当時は極めて貴重で適塾にも一部しかなく、塾生はヅーフ部屋と呼ばれる部屋に詰めかけ、奪い合って使用したといいます。塾生の勉強は他の塾とは比較にならないほど激しいものがあり、福沢諭吉は自ら述懐して、凡そ勉強ということについては、この上にしようも無いほど勉強した、と言っています。

緒方洪庵に関する司馬遼太郎氏の書籍には 『胡蝶の夢』 や 『花神』 があります。
以下『花神』より引用しました。

なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころと死んだ。洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。洪庵はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土から考えると、ちょっとめずらしい。洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。
「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。

ヅーフと通称されているのは、この当時の日本で一種類しかなかった『蘭日辞典』のことである。ヅーフという人物は一七九九年から一八一七年まで長崎の出島のオランダ屋敷にいたオランダ人でHendrick Doeff(ヘンドリック・ドエッフ)という。べつに学者でも医者でもなく、貿易官吏だが、言語に関心がふかく、滞日十九年のあいだに日本語を習得した。さらに辞典をつくった。辞典といっても、在来あったハルマ著の『蘭仏辞典』のフランス語を日本語におきかえただけのものだが、この辞典が江戸期の蘭学に貢献したところははかりしれない。

適塾

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適塾をめぐる人々

洪庵は優れた蘭学者・医学者であったばかりでなく、同時にみごとな教育者でした。適塾には入門者が日本全土から集まりその数は千人にも達したそうです。特に佐賀・筑前・越前・土佐・宇和島・足守の各藩などは、藩主の命によって入門者を送ってくるほどに、適塾の評価は高いものでした。
これら適塾門下生には明治維新に向け激動の時代に身を捧げていった大村益次郎や橋本左内があり、また慶応義塾を創立し、教育の著作活動を通じて明治の日本人の意識の近代化に多大の貢献をなした福沢諭吉もいました。内務省の初代衛生局長として日本の衛生行政を確立していった長与専斎も適塾出身です。他にも戊辰戦争で敗れた大鳥圭介や高松凌雲、日本赤十字社の祖・佐野常民を輩出しています。

適塾の歴代塾頭

初代 緒方洪庵、2代 奥山静寂、 3代 久坂玄機(久坂玄瑞の実兄)、4代 大村益次郎、5代 飯田柔平、
6代 伊藤慎蔵、7代 渡辺卯三郎、8代 栗原唯一、9代 松下元芳、10代 福澤諭吉、11代 長與專齋、
12代 山口良哉、13代 柏原孝章

適塾

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塾頭となった大村益次郎(村田蔵六)は、二階からこの屋根を見つめ、好物の豆腐を肴に酒を飲んでいたのでしょう。