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Last Updated: 23 September 2011

吉村寅太郎(虎太郎) 天保8年(1837)〜文久3年(1863) 土佐藩の志士。

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎は芳生野村庄屋吉村太平の長男として、天保八年(1837)4月18日、この地に生まれた。

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

吉村寅太郎誕生地

誕生地付近 四万十川

吉村寅太郎誕生地

四万十川 一本橋

吉村虎太郎先生 ※現地案内板より

先生は天保8年4月18日芳生野村(現在本村芳生野)庄屋吉村太平の長男として生まれました。非常な秀才でわずか11才で北川村(現在本村北川)庄屋となり、その後須崎浦(現在須崎市須崎町)庄屋下分村(現在須崎市下分)庄屋を経て、安政6年梼原村(現在梼原町梼原)庄屋となり各地で治績をあげましたが、文久元年に武市瑞山とともに土佐勤王党を組織して勤王に奔走するようになりました。文久2年正月にはひそかに防長を遊歴、九州に渡り平野國臣に会い「島津久光の入京の機に挙兵する」ことを約束して帰藩、武市瑞山を説きましたが瑞山は「藩を挙げてやるべきだが、まだ藩論が決まっていない」と言って応じませんでしたので、坂本龍馬に脱藩をすすめ自らはいち早く宮地宣蔵と二人で脱藩。平野の義挙に加わろうとしましたが寺田屋の変にあい舟牢で高知に送りかえされ12月まで獄窓で過ごしました。

文久3年2月再び上京王事に奔走、8月には明治天皇の叔父君に当る中山忠光卿にすすめて大和義挙を計画。忠光卿を隊長に自らは総裁となっていわゆる天誅組を組織し、天皇の大和行幸に先がけて大和を平定して錦旗を迎え奉ろうとし、江戸幕府直轄の五条(現在の奈良県五条市)代官を襲撃しました。その時朝議が一変し大和行幸はとりやめになりましたので事志と違ってしましました。しかしこれまできたからには初志を貫徹しようと高取城の焼討をはかりました。この時不運にも味方の弾丸にあたり負傷し、戦は惨敗に終わりました。

これより十津川に転戦しましたが時に利あらず9月27日鷲家谷(現在奈良県東吉野村鷲家谷)石の本に金谷健吉一隊の銃弾のもとに
  「吉野山 風に乱るるもみぢ葉は 我が打つ太刀の 血煙とみよ」
の辞世を残し27才の若さで散華しました。

この義挙は数多い維新の動きの中で千余の兵力をもって堂々たる倒幕第一陣であり、この烽火によって全国に倒幕の運動はくり広げられることとなり大政奉還を見、四民平等の維新は成就されたのであり、その業績は高く評価せられています。なお本村には能津生まれで芳生野に養子に来て吉村虎太郎先生と行動を共にしたが惜しくも大和義挙の16日前に病気でたおれた宮地宣蔵先生や、北川に生まれ忠勇組長として元治元年7月21日天王山の戦に散った松山深蔵先生、同じく北川生まれで吉村虎太郎先生の義兄にあたり元治元年忠勇組伍長として九門の変に活躍、7月17日傷を負って鷹司邸で切腹して果てた上岡胆治先生等の志士も居られますが、明治百年記念事業としてはこれら志士を代表し吉村先生の銅像建設を計画し募金運動を展開しましたところ裏面のとおり村内外の有志の方により多大の寄附を頂戴し昭和43年12月22日めでたく竣工除幕いたしました。
ここに御寄附者の皆様に衷心からお礼を申し上げます。

吉村虎太郎先生銅像建設期成同盟会

吉村虎太郎

吉村寅太郎像 高知県高岡郡津野町芳生野

吉村虎太郎

吉村寅太郎像

京都高瀬側沿にある吉村寅太郎寓居跡

吉村寅太郎は、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山らとともに土佐四天王とされています。

吉村寅太郎寓居跡

吉村寅太郎寓居跡 中京区木屋町姉小路下ル

天誅組の人々 ※京都霊山護国神社案内板より

文久3年(1863)8月13日、大和行幸の詔(やまとぎょうこうのみことのり)が出るや「攘夷親征の奉迎」と土佐の吉村寅太郎をはじめ、三河刈谷の松本謙三郎・備前の藤本鉄石等は、侍従中山忠光を盟主に立て、京都東郊の方広寺に集まり、倒幕のため挙兵に出た。奈良県五條代官所を襲撃、成功を収めたが、八月十八日の政変により事態は急変、行幸は中止となり、直ちに幕府は諸藩に彼らの追討を命じ、応戦するも十津川郷士の離反などから敗走を重ね、秀でた志士を失うこととなる。
吉村寅太郎は、同藩の間崎滄浪らについて文武を学び、その成績極めて優秀にして、他の志士たちより容姿端麗、同志間ではひと際目立つ存在であったといわれる。「おくに」という娘との純潔な恋愛を通じ、ひととき青年としての喜びを感じた。9月27日傷を負い敗走中、大和鷲家口で藤堂藩兵に囲まれ、もはやこれまでと
「吉野山 風に乱るゝもみじ葉は わが打つ大刀の 血けむりと見よ」と辞世を残し、銃弾を受け斃る。享年27歳。
天誅組総裁・藤本鉄石は、同志中最年長の48歳にして文人墨客で昼は一心に絵を描き、夜は志士たちと会談を重ね回天の策をめぐらすという二重生活を送る。天誅組に加わって後、奮闘するも敗走の途中戦死してしまう。
天誅組総裁・松本謙三郎は、18歳の時、槍術の稽古中に左目を失明、吉野山中での激戦にて敵弾を受け、右眼をも失い自刃した。
過激な尊攘派で知られる公卿中山忠光は、血路を開き大阪から海路長州へと逃れたが、元治元年(1864)11月、潜伏先の豊浦郡田耕村にて暗殺され20歳の短い人生を終える。
天誅組は討幕の急先鋒であり、憂国の士の集団であったが、彼らの純粋な想いだけを残し短期に壊滅した。

吉村寅太郎天誅組墓所

吉村寅太郎(虎太郎)天誅組墓所