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胡蝶の夢

大辞林(国語辞典)に拠ると、

こちょう-のゆめ ―てふ― 【▼胡▼蝶の夢】
〔荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めたが、自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分になっているのかと疑ったという。「荘子(斉物論)」の故事による〕
(1)夢と現実との境が判然としないたとえ。
(2)この世の生のはかないたとえ。

花月

花月

長崎

-幕府直轄領-

幕末の舞台として避けて通れないのが長崎です。司馬遼太郎氏幕末小説のその殆どに登場しますが、中でも『竜馬がゆく』、『胡蝶の夢』、などはこの土地を舞台とした話が多くでてきます。長崎中心部は幕府直轄領(天領)であり、藩がないため城もなく長崎奉行所と長崎会所の町役人が治めておりました。

松本良順

-胡蝶の夢-

松本良順(まつもとりょうじゅん) 天保3年(1832)~明治40年(1907)

日本に系統だった西洋式の医学教育を長崎で導入したオランダ軍医ポンペ(1829~1908)について学び、その助手として、当時の日本人としてはもっとも本格的な西洋医学を修めた人物です。司馬氏の幕末小説では脇役的によく登場しますが、京では近藤勇と親交を結び、徹底抗戦のために出向いた会津では土方歳三と久闊を叙し、負傷兵の治療にあたっています。また沖田総司や河井継之介も良順の治療をうけています。
良順はポンペとともに長崎大学医学部の創設者であり、司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』では島倉伊之助(司馬凌海)とともに主人公として描かれています。

松本良順は佐倉順天堂の始祖、蘭医佐倉泰然の次男として生まれ、蘭医学を学びました。泰然と親しかった幕府寄合医師松本良甫は良順を養子として迎えます。
第二次海軍伝習にオランダが軍医を派遣することを聞いた良順は、第一次海軍伝習の伝習所総督を勤めた後第二次海軍伝習生を集めていた永井尚志を説得し、伝習生附御用医として長崎に向かいます。
ポンペの医学校建設の志に共鳴した良順は、まず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力します。そのころ蘭医学は禁じられていましたので、他藩からの医師は良順の弟子ということにしてポンペの講義を受けることができるように取り計らってあげました。
1857年11月ポンペは長崎奉行所西役所の一室で良順とその弟子たちに最初の講義を行ないます。この当時島倉伊之助がその天才的語学力でポンぺの講義を書きとめ、他の弟子達がそれを見せてもらい学んでおりました。次第に多くの弟子が集まり、手狭となった西役所の一室から大村町の元高島秋帆宅に移った時、良順は病院を付置した医学校建設を決意します。

この当時の長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で医学校建設に助力を惜しみませんでした。
1859年、井伊大老から突然オランダ人海軍伝習教官の帰国命令が出されたとき、良順は岡部駿河守と共に医学伝習の存続に骨を折り、ポンペは残留します。
1860年、良順はロシア兵の長崎寄港の際、円山遊女の梅毒検査を実施します。1861年9月養生所が完成、良順はその頭取となりました。
1862年、ポンペは63名に卒業証書を渡し帰国。1863年、良順は江戸に帰り、西洋医学所頭取となりました。
良順は医学校で兵書を読む学生が多いのに憤慨して医学書のみを読むべしと兵書と文法書講義の禁令を出したところ、攘夷熱に冒された医学生の轟々たる非難を受けます。
前頭取の緒方洪庵の学風は蘭学を広い分野に応用することを認め、大村益次郎、福沢諭吉のような多彩な人々が輩出しますが、良順そして順天堂の学風は医業専一であって、佐藤尚中、関寛斉のような医人が育ちました。(関寛斉もこの小説の中心人物といっていいでしょう)

1866年、幕府軍は長州征伐で敗退。この時良順は大阪城で病む将軍家茂を治療してその臨終を見取ります。
その後、幕府の海陸軍医制を編成し、総取締になり、戊辰戦争では会津城内に野戦病院を開設しました。山県有朋の要請により陸軍軍医部を編成し、1871年、初代軍医総監となっています。

1907年に没、享年76歳。
坊主頭の法眼(幕府医者の頃)なのに、実に血の気が多く、また竹を割ったようなさわやかな人柄は皆から愛される存在でした。

島倉伊之助

-司馬凌海-

『胡蝶の夢』のもうひとりの主人公、佐渡国(新潟県)出身の司馬凌海は幼少の時から神童の誉れ高く、十二歳の時に江戸に出て漢学と蘭学、医学を学びました。安政4年(1857)、医師松本良順に従い長崎に赴く機会を得てオランダ語と医学の学びます。明治維新後、大学東校、宮内省、元老院書記官、愛知県医学校教授を歴任しました。同5年に日本最初の独和辞典『和洋独逸辞典』を出版するなど、日本におけるドイツ学の草分け的存在となっていました。その後、名古屋で開業しましたが、結核を発病し、明治12年没。
『胡蝶の夢』の中では人付き合いが特別に下手(ひとに気を配らない)であるけれども、外国語の修得は天才的で、短期間の間にその国の外国人が『あなたは私の母国に何年いましたか』などと訊ねられるほど超人的な能力を持っており、あるときは放蕩的人物として描かれています。一時期長崎から平戸に行き長期滞在(宿泊先の娘とできてしまった)していますが、平戸に所縁の史跡があるのでしょうか。