新潟からジェットフォイルで1時間、『胡蝶の夢』の主人公 島倉伊之助(司馬凌海)の故郷、佐渡島を訪ねました。
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Last Updated: 7 November 2008
司馬凌海先生は、天保10年(1839)真野町新町島倉栄助の長男として生まれた。幼名玄之助、のち盈之、字は士虧(しき)、船楼と号し凌海は通称である。島倉を司馬と改めた。神童といわれ、八歳で詩を作った。12歳で江戸(東京)に出て、松本良甫や佐藤泰然について医学を学び、のちオランダ医師ポンペについた。 24歳で新しい医学書「七新薬」を著し、明治元年東京大学の前身医学校の教授となり、さらに少博士となった。語学は天才といわれ六か国語に通じ、ドイツ語の私塾「春風社」を創立、その門下から多くの人材を出した。明治5年日本最初のドイツ語辞典を出版し、黎明期の日本に大きな功績を残した。同9年愛知県医学校教授兼病院長となったが、その門下生に後藤新平がいた。明治12年(1879)3月11日、神奈川県戸塚で39年4ヶ月の短い生涯を終えた。昭和53年の命日郷里で百年祭をおこなった。この碑は、山県有朋の篆額、石黒忠悳の撰文、山本充(号静古、通称半蔵)の書で、明治39年建てられた。
佐渡金山の開山
以下、『史跡 佐渡金山 宗太夫坑コースパンフレット』より引用。
慶長6年(1601)、佐渡金山の山向こう「鶴子(つるし)銀山」の山師3人により発見されたと伝えられています。産出された金銀は、江戸時代を通じて徳川幕府の財政を支えてきました。
金銀の生産量
平成元年の操業停止まで388年間に採掘した金の量は78トン、銀は2,330トンに上り、国内最大の産出量を誇る金銀山です。
現地案内板より
宗太夫坑は、坑口の高さが約3メートル、幅2メートル、坑道の断面が大きい江戸初期に開坑された大型坑道である。 鉱石の運搬機能と採掘技術が発達した1690年代(元禄時代初頭)頃の主力間歩(まぶ/坑道)の一つであった。部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、探鉱用の小さい狸穴、天井に抜ける空気坑、「釜の口」と呼ばれる坑口とその飾りなど、江戸期の旧坑の諸条件を完備していて、大形の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。脈幅・走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端に当たる「割間歩(われまぶ)」坑の一鉱区として開発された。 平成6年(1994年)5月24日、国の史跡に指定された。
佐渡奉行所
佐渡金山を管理するために慶長8年(1603)に建てられました。最初の頃は相川陣屋、石見陣屋などと呼ばれ、元和4年(1618)幕府職制改正に基づき佐渡代官が佐渡奉行へと変更となった頃から佐渡奉行所と呼ばれるようになりました。役所としての役割のほか、金銀を精製する工場の機能もありました。何度も火災にあっていますが、その都度再建されています。
司馬凌海先生の碑 ※現地案内板より