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Last Updated: 13 August 2006

幕末歴史探訪:河井継之助のコーナーで紹介していない長岡市の史跡を紹介します。

米百俵の碑

米百俵の碑

小林虎三郎は、文政十一年(一八二八)に生まれ、晩年病翁と改めた。佐久間象山に学び、吉田松陰と象門の二虎と称された。戊辰戦争後、敗残のすえ、焦土と化した長岡の大参事に抜てきされた。教育第一主義を唱え、支藩三根山藩の教米百俵を赤貧にあえぐ藩士の強要を退け、国漢学校設立の資にあて、長岡復興の礎をつくった この事跡は山本有三著「米百俵」によって広く世に伝えられた。
明治十年病歿 年五十。

幕末番外編その1  山本五十六:1884年~1943年

山本五十六

山本五十六の銅像

長岡藩士高野貞吉の六男として誕生。
長岡中学を経て海軍兵学校を卒業。日露戦争の日本海海戦においては装甲巡洋艦「日進」に乗船、左手の人差指と中指を失う。
その後旧長岡藩の家老の山本家を相続し、山本姓となる。
1941年、太平洋戦争勃発、真珠湾攻撃を発案。
1942年、ミッドウェイ海戦にて大敗を喫す、暗号を解読されたことも敗因となった。
1943年、ここでも米軍は日本軍の暗号を解読、山本五十六の南方前線視察計画を掌握する。これにより16機のP38戦闘機にブーゲンビル島で撃墜され死亡する。

山本五十六 復元された生家

山本五十六 復元された生家

山本五十六 復元された生家

山本五十六 復元された生家

幕末番外編その2 新潟市

信濃川と萬代橋
信濃川

現在の信濃川と萬代橋(国の重要文化財)明治19年に木橋の初代萬代橋が完成するまで、信濃川下流域には一つの橋もなく、渡し船で渡るしかありませんでした。1868年の戊辰戦争では、新政府軍が新潟町を占領、新潟府が置かれています。

当時の新潟の様子は『峠』では以下のように記載されています。
新潟は信濃川の河口にあり、越後の代表的な港である。もとは長岡藩の支配地であり、げんに継之助の父代右衛門も壮年のころ新潟奉行をつとめたことがある。・・・(中略)それでもなお繁盛はつづいたが、継之助十七歳の天保十四年に幕府はこの港の利益に目をつけ、長岡藩からとりあげて直轄地にしてしまったのである。このころ、人口二万三千人であった。さらに新潟港の運命が変転したのは、幕府は安政通商条約でとりきめた五つの開港場にこの港をふくめたのである。が、現実には新潟はまだひらかれていない。