(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 23 September 2008
吉田松陰(寅次郎) 天保元年8月4日(1830年9月20日) - 安政6年10月27日(1859年11月21日)
萩藩士:杉百合之助の二男として萩市に生まれ、山鹿流兵学師範吉田大助の養子となります。
吉田松陰は、幕末に生きた非常に情熱的な人です 。30年という短い生涯ながらも、自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えました。やがてその中から明治維新で活躍する人物が多く出ました。吉田松陰の生き方は21世紀を生きる私たちに多くのことを教えてくれます。司馬遼太郎著『世に棲む日日』全4巻にて吉田松陰について詳しく記述されています。『世に棲む日日』は前半:吉田松陰、後半:高杉晋作が主となっており、幕末好きな方にはお薦めです。
以下『世に棲む日日』より引用しました。
長州の人間のことを書きたいと思う。
いまでこそ、この長門、周防つまり防長両国をあわせたこのあたりの山河はただの山口県と称されるにすぎないが、以前はそうではない。
戦国期の毛利氏といえば、安芸の国広島を根拠地としてその版図は山陽・山陰十一カ国におよび、いわば中国筋の王といわれるにふさわしく、天正期には中央勢力である織田氏とあらそったほどのきらびやかな歴史をもっている。
(・・・中略・・・)
幕府はこの家を窒息させようとした。げんに毛利氏は窒息寸前にまで追いつめられた。かつて百二十万石の規模の家が、人員を四分の一に整理したが、整理された者の多数が、「無禄でもよろしゅうございます」といってついてきたため大名としての経済が立たなくなり、当時この家の主催者だった毛利輝元がついに気が鬱したあげく、
「とうてい家を維持できない。これならばいっそ城も国も幕府にさしあげます」
と、幕府にむかって絶望的な訴えをしたほどであった。が、幕府は無視した。
その毛利氏長州藩が、幕末にいたってふたたび歴史に登場し、最大の革命勢力になり、ついに幕府をたおし、封建制度をつきくずし、この国にあたらしい時代をまねきよせる主導勢力になった。
「それも、松陰以後である」と、よくいわれる。
ここは吉田松陰の実家、萩藩士杉家(家禄26石)の旧宅地である。
この付近は「団子岩」と総称され、萩城下が一望できる風光明媚な場所である。
杉家の建物は、元は萩藩士八谷聴雨の山荘であり「樹々亭」と称していた。
松陰は、天保元年(1830)8月4日、杉百合之助の次男としてここに生まれ、19歳までの人間としての形成期を過ごした。
両親や兄弟とともに農耕に従事し、その合間には父から漢籍の素読などを受けた、思いで深い場所である。松陰自身の書き残した書の中にも、「樹々亭」「山屋敷」「山宅」などの表現が見られる。
旧宅の間取りは玄関(3畳)、表座敷(6畳)、居間(6畳)、隠居部屋(3畳)、納戸(3畳)、台所、それに別棟の納屋と厩という、非常に狭く、簡素な造りであった。
嘉永6年(1853)に杉家が転居した後、いつしか建物などは失われ、荒れ果てていたが、大正11年(1922)に椿東村青年会会長信国顕治が、青年会員に呼びかけて整備した。当時の間取りを示す旧宅の敷石も、後に住んでいた人の記憶によってこの時復元したものである。
整備に合わせて山県有朋が「吉田松陰先生誕生之地」石碑の題字を揮毫している。肩書きを「門下生」のみとしているところに、師に対する謙譲の気持ちが表れている。なお、山県有朋は整備完了前に死去したので、これが絶筆となった。
【現地案内板より】
ここから市内を一望すると、この小さな城下町の中から生まれた維新の活力を彷彿とさせてくれます。萩は関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が、この三角州指月山のふもとに城と町を築いたところで、江戸時代の典型的な城下町の姿を保ち、細工町、侍屋敷、商人町、寺町など、その構造を知るには最も都合のよい町であるといわれています。
【現地案内板より】
この銅像は、明治維新100周年を記念して1968(昭和43)年に建立されたものである。松陰先生が弟子の金子重輔を従え、下田沖のペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したもので、高さは約8mある。題字は当時の佐藤栄作首相が書き、銅像は萩出身の日展審査委員長嶺武四郎が製作している。
【現地案内板より】
玉木文之進(1810~76)は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家から出て玉木家(大組40石)を継いだ。生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾と名付けた。この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政2年(1855)には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。
建物は木造瓦葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。
幼少の頃、父百合之助の末弟の玉木文之進より、厳しい教育を受けます。その厳しさは尋常ではなく、母親のお滝などはこんな厳しい教育であればいっそ死んだほうがこの子も楽であろうと思ったくらいでした。
玉木文之進には子がいませんでした。このため、玉木家の宗家とされる長府の乃木家から正誼(まさよし)を養子にとります。正誼というのは乃木希典(のぎまれすけ)の弟です。希典もまた少年のころ、玉木家で起居して文之進の教育をうけました。松陰と希典とは、玉木文之進を師とする同門ということができます。
玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。
この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。
この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。ついては介錯をたのむ、と申されました。私もかねて叔父の気性を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。私はちょうど四十でありました。わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。介錯をしたあとは、夢のようでありました。
【現地案内板より】