吉田松陰 平戸・東北遊学

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長州藩の兵学師範の家を継いだ吉田松陰は、嘉永3年(1850)、家学を修めるため肥前平戸藩、山鹿流兵学者の山鹿万介や葉山左内に就いて学びます。また肥後熊本を遊歴し、山鹿流兵学者で志士の宮部鼎蔵と出会います。またこのころ江戸へ出て佐久間象山にも師事しています。
嘉永4年(1851)には東北遊学、通行手形が間に合わず、手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を犯してしまいました。この遊学で水戸藩士の会沢正志斎に面会、会津では日新館の見学をしています。翌嘉永5年(1852)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育となりました。

※山鹿流兵学学祖の山鹿素行は会津若松出身ですが、孫の山鹿高道が江戸より平戸へ移り住み、平戸藩につかえ、その子孫は代々家老職をとり、学統を守っていました。

※宮部 鼎蔵(みやべ ていぞう)文政3年(1820年)4月 ~ 元治元年6月5日(1864年7月8日)肥後熊本藩士、山鹿流兵学を学んだ。元治元年(1864年)6月5日池田屋事件で新選組と奮戦、自刃、享年45歳。

現地案内板より

吉田松陰は、嘉永3年(1850年)21才のとき毛利藩候より平戸に葉山鎧軒、山鹿高紹のいることを聞き、その年の九月西遊して平戸に来た。この西遊の時、佐世保を経て平戸に向かう途中江迎の庄屋に一泊している。この石は、松陰の日記にも記されているように、当時の困難な徒歩旅行で、やっとのことで庄屋に泊めてもらうことになったが、家の中に入る前に、くたくたに疲れた体をしばらくこの石に腰をおろして休めたといわれている。

吉田松陰 平戸街道

吉田松陰 腰掛けた石

現地案内板より

吉田松陰宿泊紙屋敷
1850年(嘉永3年)、山鹿流軍学を学ぶために平戸を訪れた吉田松陰は、儒学者で平戸藩家老でもあった葉山佐内に惹かれ、この地にあった紙屋に滞在しながら数多くの書物を書き写したという。

平戸城

吉田松陰宿泊紙屋敷

東北地方への遊学

嘉永4年(1851年)、藩発行の関所手形が間に合わない中、松陰は宮部鼎蔵との盟約を重んじ、江戸を発ち、東北遊歴に向かいます。これは脱藩行為であり、士籍を削られ世禄を奪われました。初めて見る東北の雄大な自然、蒼々漫々たる肥沃の田は松陰に大きな感動を与えますが、併せて世の中の矛盾を感じずにおられず、憂国の念を深めることになります。

日新館

日新館 天文台跡

左写真は会津若松市河東町南高野字高塚山にある会津藩校『日新館』です。ここは会津藩の城:鶴ヶ城からかなり離れており、当然当時藩校はこの地にはなく、観光用に復元されたものです。日新館跡地は鶴ヶ城そばに天文台跡として残っています(右写真)。松陰はこの地にあった『日新館』を見学しています。