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Last Updated: 23 September 2008
嘉永7年・安政元年(1854)、吉田松陰は伊豆半島の先端の港町下田に入りました。
「下田はわが国の喜望峰である」といったのは、万事世界的規模でものを考えたがる師の象山であった。喜望峰のごとく南へたれさがり、西からきた船舶はこの岬をまわらずには相模湾に入ることができないというところから、象山はこういう誇大表現をしたのであろう。
司馬遼太郎著『世に棲む日日』より引用しました。
憂国の志士吉田松陰は、弟子金子重輔と共に柿崎弁天島の祠に身を隠し、夜になって、ここ弁天島の浜辺より小舟漕ぎだした。尊皇攘夷の嵐の中で海外の事情を探るべく渡航を達せんものと必死になって荒波とたたかい米艦ポーハタン号に向かいつつある緊迫の場面である。雄図空しく挫折したがその国を思う気迫と精神は見る者に深い共感を呼び起こさないではおかない。時に嘉永7年3月27日の夜(西暦1854年4月24日)であった。
六年後の安政7年(1860)、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行を乗せたのもこのポーハタン号でした。この時咸臨丸(木村摂津守、勝海舟、福澤諭吉、ジョン万次郎らが乗船)が随行し太平洋を横断しました。
吉田松陰先生像
吉田松陰先生下田平滑獄中の記
『世の人はよしあし事もいはばいへ 賤が誠は神ぞ知るらん』
吉田松陰拘禁の跡 【現地案内板より】
幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来航したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ急行したが間に合わず翌嘉永7年(1854)三月再航したペリー艦隊の後を追って弟子金子重輔と下田へ来た。機をうかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松陰等がいさぎよく自首して拘禁された場所がここ宝光院長命寺(廃寺)であった。さらに平滑の獄に移され、同年4月11日には江戸伝馬町の獄に送られた。松陰等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な一頁を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった。
「英雄もその志を失えば、その行為は悪漢盗賊とみなされる。我等は人前で逮捕され、しばられ、ここで数日間おしこめられている。この村の名主以下はわれわれを軽侮し、悪罵を投げ、虐待することはなはだしい。しかしどう反省しても非難さるべきようなことは何ひとつない。いまこそ、真の英雄かどうか知るべきときである。五大州をあまねく歩かんとするわが志は、ここに破れた。いまその身を、半間にも及ばぬ檻の中に見出している。この狭さは、食することに不自由であり、休みことも不可能であり、また眠ることも不可能である」
「しかし」と、松陰はいう。
「この檻にあっておのれの運命に泣けば、ひとは愚者だとおもうであろう。笑えば悪漢のように見えるであろう。どういう態度もとれない。だから私はただ、沈黙をまもっているだけである」
司馬遼太郎著『世に棲む日日』より引用しました。
ペリー上陸の碑 【現地案内板より】
嘉永7年(安政元年-1854)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、「ペリー上陸の碑」が建てられた。この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。
法順山了仙寺(日蓮宗) 【現地案内板より】
第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行父彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。本堂南側の基城の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四代伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である (下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられている。嘉永7年(安政元年 1854)3月、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年5月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休息所となった。なお、寺の背後の海蝕洞窟から人骨・玉類金銅製の腕輪や耳飾り、須恵器土師器などが出土した。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。
八幡山宝福寺 【現地案内板より】
嘉永七年(安政元年 1854)3月に締結された日米和親条約により下田開港となり、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。ペリーとの間に結ばれた和親条約付録下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、日露和親条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。文久3年(1863)下田に入港した大鵬丸に乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。
慶応元年(1865)韮山代官江川英武の命令で当寺境内において農兵調練が行われた。なお、墓地には『下田年中行事』八七巻を書き上げた平井平次郎、ハリスに仕えたお吉の墓がある。また、安政の東海地震(1854)後の津波は本堂の床上まで達した。
開国博物館
初の米国領事館跡
米国総領事旗掲揚之地 【現地案内板より】
安政元年に締結された下田追加条約によってアメリカの休息所となり寺域内に同国人の墓地が設けられるようになった。つづいて同3年8月アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは下田に上陸してこの寺を住居とし同月9日初めて領事旗を掲げ以後同6年6月まで総領事館となった。本堂はハリスの居室、ヒュースケンの居室及び事務室があって当時の規模をよく伝えており幕末外交史上重要な史跡である。尚、本堂の北側にアメリカ人の墓地、南側にロシア人の墓地がある。
ヒュースケン
駐日米国総領事館の通弁官(通訳)、ハリスの秘書兼通訳。
万延元年(1861)、芝赤羽接遇所から宿舎である善福寺への帰途中、芝薪河岸付近で攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平らに襲われ死去しました。幕府はヒュースケンの家族へ弔慰金を支払って事件を落着させましたが、これ以後も東禅寺襲撃事件など攘夷派による外国人襲撃事件は続きました。
ハリスの小径
米艦ポーハタン号に向かう吉田松陰・金子重輔