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Last Updated: 23 September 2008
吉田松陰と同時代の思想家の関係や系譜について調べてみました。
思想家名 | 生年月日 | 死亡日 | 出身藩 | 死因 |
---|---|---|---|---|
佐藤一斎 さとう いっさい |
1772年11月14日(安永元年10月20) | 1859年10月19日(安政6年9月24日) | 岩村藩 | |
安井息軒 やすいそっけん |
1799年2月5日(寛政11年1月1日) | 1876年9月23日(明治9年9月23日) | 飫肥藩 | |
山田方谷 やまだ ほうこく |
1805年3月21日(文化2年2月21日) | 1877年6月26日(明治10年6月26日) | 松山藩 | |
藤田東湖 ふじた とうこ |
1806年5月4日(文化3年3月16日) | 1855年11月11日(安政2年10月2日) | 水戸藩 | 安政の大地震で圧死 |
横井小楠 よこい しょうなん |
1809年9月22日(文化6年8月13日) | 1869年2月15日(明治2年1月5日) | 熊本藩 | 十津川郷士らによる暗殺 |
佐久間象山 さくま しょうざん |
1811年3月22日(文化8年2月28日) | 1864年8月12日(元治元年7月11日) | 松代藩 | 尊王攘夷派による暗殺 |
吉田東洋 よしだ とうよう |
1816年(文化13年) | 1862年5月22日(文久2年4月8日) | 土佐藩 | 土佐勤王党による暗殺 |
小林虎三郎 こばやし とらさぶろう |
1828年9月26日(文政11年8月18日) | 1877年8月24日(明治10年8月24日) | 長岡藩 | 熱病に罹り死去 |
吉田松陰 よしだ しょういん |
1830年9月20日(天保元年8月4日) | 1859年11月21日(安政6年10月27日) | 長州藩 | 安政の大獄のおり斬首 |
上の表は出生の早い順に並べています。吉田松陰を中心にみますと、松陰は佐久間象山の門下であり、小林虎三郎と「象門の二虎」とよばれています。師である佐久間象山は佐藤一斎の門下で学び、山田方谷とともに「佐藤門下の二傑」とよばれました。横井小楠も佐藤一斎に学んでいます。
河井継之助、文政10年(1827)~ 慶応4年(1868)は山田方谷を生涯師と仰ぎますが、江戸遊学中は佐久間象山にも学んでいます。
佐藤一斎が残した言葉に、「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり 壮にして学べば、則ち老いて衰えず 老いて学べば、則ち死して朽ちず」があります。
吉田松陰は「象門の二虎」ですが、松陰の門下生にもいろいろと呼称があります。
- 松下村塾の双璧
久坂玄瑞と高杉晋作 - 松陰門下の三秀
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ) - 松門四天王
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一
残念ながら、彼ら四天王は全員維新を見ずに斃れます<死亡順>
※吉田稔麿(よしだとしまろ)
天保12年閏1月24日(1841年3月16日)~元治元年6月5日(1864年7月9日)
元治元年6月5日池田屋事件で宮部鼎蔵、北添佶摩、大高又次郎、石川潤次郎、杉山松助、松田重助らとともに闘死
「殉難七士」。この事件がきっかけとなり、長州藩は上洛し、元治元年7月19日の禁門の変を起こす。
※久坂玄瑞(くさかげんずい)
天保11年(1840年)~元治元年7月19日(1864年8月20日)妻は吉田松陰の妹文。
元治元年7月19日(1864年8月20日)禁門の変(蛤御門の変)で負傷、自刃。
※入江九一(いりえくいち)
天保8年4月5日(1837年5月9日)~元治元年7月19日(1864年8月20日)
元治元年7月19日(1864年8月20日)禁門の変で久坂玄瑞らと天王山で奮戦。
久坂負傷し自刃、入江は脱出を図るも敵の銃撃を受けて負傷、自刃。
※高杉晋作(たかすぎしんさく)
天保10年8月20日(1839年9月27日)~慶応3年4月14日(1867年5月17日)
幕長戦争を戦い、下関の豪商林算九郎邸の離屋で肺結核のため死亡。
上の表では二番目に古株の安井息軒(現在の宮崎県宮崎郡清武町出身)は、江戸に出て昌平黌に学び、藤田東湖・塩谷宕陰(しおのやとういん)文化6年(1809)~慶応3年(1867)・吉田東洋らと親交を結びました。天然痘の痕が顔面に残っていた息軒は、「サルが本を読む」とからかわれながらも、猛勉強に励み以下の句を残しています。
今は音を 忍が岡の ほととぎす いつか雲井の よそに名乗らむ
また、私塾「三計塾」を開き、門下からは谷干城や陸奥宗光などの逸材を輩出しました。有名な『一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。』は息軒の三計の教えです。
塩谷宕陰は山田方谷と昌平黌(しょうへいこう)=昌平坂学問所=湯島聖堂(ゆしませいどう)の同窓にあたります。
文久2年(1862年)、安井息軒・塩谷宕陰・芳野金陵(よしのきんりょう):享和2年(1802)~明治11年(1878)の三人は昌平黌教授となり、文久三博士と称されました。
塩谷宕陰と安井息軒がその当時最も優れた人物はだれかを議論したとき、息軒は水戸の藤田東湖を推賞し、宕陰は山田方谷を挙げ、東湖に学問を加えた人物だと絶賛しています。