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Last Updated: 23 September 2008
ポーハタン号への乗りこみ密航に失敗した吉田松陰と金子重輔は、江戸伝馬町の牢を経て長州の野山獄・岩倉獄に檻送されます。翌安政2年(1855年)、萩の生家で預かりの身となり、叔父の玉木文之進が開いていた松下村塾を引き受けて主宰者となります。この松下村塾で後に活躍し幕末維新の中心人物となる高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠、品川弥二郎らを教えますが、それは3年に満たない短い期間でした。
松下村塾の教育 ※「知っちょる!?やまぐち」サイトより引用
松陰が塾生に「君は何のために学問をするのかね」と尋ねると、塾生は「どうも本が読めませんので、よく読めるようになりたいのです」と答えました。すると松陰は「学者になるのではないのだよ。人は学んだことをどう実行するかが大切なんだよ」とさとしました。塾での勉強は、ただ物事を知ったり、理屈を言うだけでなく、何事も実行していくことの大切さを学ぶことでした。このように松陰は、自分の持っている知識を役立てて、今の日本の問題をどう解決するのかという生きた学問の重要性を説きました。
「万巻の書を読むにあらざるよりは いずくんぞ千秋の人たるをえん」
多くの本をよみ勉強しなければ、どうして名を残すような立派な人間になることができようか。しっかり勉強しなさい。
この言葉を竹にほりこみ松下村塾の柱にかけたそうです。
松陰が高杉晋作に教えた死生観
司馬遼太郎著『世に棲む日日』に詳しく書かれています。
君は問う。男子の死ぬべき所はどこかと。小生も昨年の冬投獄されて以来、そのことを考え続けて来たが、今ついに、死の一字について発見するところがあった。死は好むものでもなく、また、憎むべきものでもない。世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなす見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ。
高杉晋作はこの死生観を一生貫いて生きました。
明治23年(1890)・松陰の没後31年たってから建立されたものです。本殿は昭和30年(1955)に建てられています。
松下村塾