幕末倒幕の先駆者 吉田松陰

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Last Updated: 5 October 2008

松陰は安政5年(1858)、安政の大獄に連座し江戸へ送られ、老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、安政6年(1859)10月27日、評定所で死刑の判決を受け、小塚原にて斬首されました。 その前日に獄中で、門弟たちにむけて「留魂録」を書き残しています。
「留魂録」に関しては、山口県出身の直木賞受賞作家:古川薫氏が 『吉田松陰 留魂録』で詳しく解説されています。

【現地案内板より】

正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組・禄高200石)は酒に酔って道一つ隔てた西隣の藩士野山六右衛門(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。この事件のため岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。
野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。なお、現在の指定地は獄の一部分である。
幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗した後に野山獄に、その従者金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられた。
野山獄はまた維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(革新派)・俗論派(保守派)双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所でもある。

野山獄跡

野山獄跡

岩倉獄跡

岩倉獄跡

松陰は安政元年(1854)【下田でペリー艦隊のポーハタン号に向かい密航を企てるが失敗】、安政5年(1858)【老中首座間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画が頓挫のため】の2度にわたりこの野山獄に投獄されました。

【現地案内板より】

江戸時代、萩城下から山口へ通じる藩主御成(おなり)街道は、大屋から左へ折れるので城下の見えるのもここが最後です。松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れの涙を流すと言うので、ここの街道並木を「涙松」と呼んでいます。幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸へ送られるとき「かえらじと思いさだめし旅なれば、ひとしほぬるる涙松かな」と詠んで一躍有名になりました。
そして安政6年(1859年)の10月27日、評定所で死刑の判決を受け、小塚原にて斬首されました。小塚原の刑場跡は荒川区南千住にあります。

涙松遺跡

十思公園(伝馬町牢屋敷跡碑) 東京都中央区日本橋小伝馬町

この公園付近一帯はかつては牢屋敷で、江戸時代を通して数十万の入牢者があったと言われています。安政の大獄では、勤皇の志士も96人が収容されました。

伝馬町牢屋敷跡碑

伝馬町処刑場跡

吉田松陰終焉の地碑

安政5年(1858年)松陰は安政の大獄に連座し江戸へ送られ、老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、安政6年(1859年)10月26日、ここで、門弟たちにむけて「留魂録」を書き残しています。

【留魂録の冒頭に書かれた辞世の句】
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

親思う心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん

吉田松陰終焉の地碑

吉田松陰終焉の地碑(十思公園内) 東京都中央区日本橋小伝馬町

幕府が敢行した安政大獄の大弾圧は、かえって反幕の火に油をそそぐ結果となった。高杉晋作、久坂玄瑞をはじめとする松下村塾グループは、殉教者となった松陰の遺志を継いでふるいたつのである。
吉田松陰は、幕末の暗黒時代に長州藩がささげた最初の犠牲だった。慶長の藩初から長州に底流する徳川幕府への遺恨が、ようやく明確なかたちであらわれたとすれば、それは安政六年の松陰処刑からだといってよい。もちろん長州藩の藩幕行動が、ただ関ヶ原いらいの怨念に発するという単純なものではないが、ひとつの精神的背景をなしたことはたしかだろう。そして吉田松陰という先覚者の出現が、長州藩を反幕勢力の先頭に押しあげたのである。「彼は難産した母である。みずからは倒れたが、その生命を伝えた赤児は育ち、母の使命を果たした」
蘇峰徳富猪一郎のことばである。
古川薫氏著『歴史散歩 城下町 萩』より引用しました。

松陰の大和魂はその後の革命の志士たちに見事に受け継がれました。

【現地案内板より】

吉田松陰の墓は表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏称寅次郎 安政六年己未十月二十七日 於江戸歿 享年三十歳」と刻まれ、遺髪を埋めて百ヶ日忌に建てたものである。
墓前には門人の佐世一誠(前原)、久坂誠(久坂玄瑞)、品川日孜(弥次郎)、伊藤和卿(博文)、高杉春風(晋作)など十七名が寄進してその名を公然と刻んだ水溜め、花立て燈籠が供えてある。この墓所には松陰のほかにその一族である杉、吉田、玉木、久坂各家の人々と高杉晋作、吉田稔磨、馬島甫仙など松陰とゆかりの深い人々の墓が立ち並んでいる。

吉田松陰の墓

吉田松陰の墓ならびに(門人たちの)墓所 萩市大字椿東

斬首二日後の10月29日、その遺骸をもらい受けるため、長州藩の桂小五郎と伊藤博文が、この小塚原の刑場に来ていました。その帰りに桂小五郎はこの場所で死囚の解剖をしている村田蔵六を見かけます。「あのひとはどなたです」、と人にきくと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」といわれて、同郷の蘭学医を思い出すのでした。桂小五郎が、のちの倒幕軍の総司令官、わが国近代兵制の創始者となった大村益次郎こと村田蔵六を見出したのは、じつにこの時期、この小塚原の刑場だったのです。

司馬遼太郎氏の著書: 『王城の護衛者』の「鬼謀の人」に次のようなくだりがあります。
村田蔵六、のちの大村益次郎。幕末のぎりぎりのときに官軍参謀として彗星のようにあらわれたこの天才的な戦術家は、桂に知られる最初から、一種数奇なふんい気をおびている。「地下の松陰がひきあわせたのか」と桂は晩年までそう信じていた。