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Last Updated: 13 August 2006

長岡城本丸跡

長岡城本丸跡の碑
大手通りにある慶応年間の古地図と現在地を重ねた地図

JR長岡駅にある長岡城本丸跡の碑、長岡駅は城跡に建てられました。右の写真は大手通りにある慶応年間の古地図と現在地を重ねた地図です。

雪が来る。
もうそこまできている。あと十日もすれば北海から冬の雲がおし渡ってきて、この越後長岡の野も山も雪でうずめてしまうにちがいない。(毎年のことだ)まったく、毎年のことである。あきもせず季節はそれをくりかえしているし、人間も、雪の下で生きるための習慣をくりかえしている。

司馬遼太郎氏著『峠』より引用しました。

長岡案内図

長岡今昔散策絵図 (長岡駅観光案内所配布)

河井継之助邸址の碑 現地案内版より

長岡藩士の河井継之助は、文政十年(1827)一月に生まれています。継之助はこの地を中心にして、友と交わり、学問に励み、自らを強く賢くしました。郡奉行、町奉行、家老など、長岡藩政をまかされる地位に登用されたのは、継之助の努力のたまものだといわれています。
それまでの長岡藩財政は、ゆとりのない状態が続いていましたが、継之助が改革を進めた結果、立て直しに成功しました。
それは第一に民政を安定させ、経済を活発にさせたからでしょう。戊辰戦争では、西軍と戦うことを決断しています。長岡城奪還戦の際の負傷がもとで、慶応四年(1868)八月、会津塩沢で没しました。その生涯は、正義を重んじた政治力、ものを生み出す理財の才、際立った軍事作戦の妙など、北越の蒼龍と称されるほどの英傑だったといえましょう。

河井継之助邸址 現地案内版より

河井継之助が住んでいた邸は、戊辰戦争の戦火で焼失してしまいました。戦後、捕らわれていた家族が許されて長岡に帰ってきます。
父の代右衛門・母の貞・妻のすがの三人が、その焼け跡に小さな家を建てて住みました。つい最近まで、再建した家が残っていましたが、老朽化が激しく取り壊してしまいました。しかし、屋敷跡に現存する庭は、継之助のころのままだといわれています。継之助の号の蒼龍窟は、その昔、庭にあった二本の松の木に由来するものと伝えられています。残念ながら、その松は枯れてしまいましたが、二代目の松が残っていました。 その松も昭和五十九年暮れの豪雪で倒れてしまいました。

河井継之助邸址の碑

河井継之助邸址の碑

河井継之助邸址

河井継之助邸址

河井継之助は江戸に出て、古賀茶渓・斎藤拙堂・佐久間象山などに学び、1859年には備中松山藩(岡山県高梁市)の山田方谷(やまだほうこく)の教えを受けます。ここで方谷に教えられたことが、継之助の後の長岡藩財政改革に役に立ちました。方谷は現在の価値に換算すれば300億円ともいわれる藩の借金を7年で返済するという奇跡の藩財政改革を行った人です。
『山田方谷・奇跡の藩政改革』 を観れば方谷のことがよく分かります。目覚しい経営手腕を発揮した方谷ですが、二度も離婚し、遊女に現を抜かした時期があったと出演している役者の寺田農さんに紹介されており、興味深いものがあります。

司馬良太郎氏の『峠』より以下引用しました。

この朝、官軍が来襲するや、この鐘が、東方の城に向かって急を告げた。撞き手は、前線から駈けてきた数人の長岡藩士であった。折から官軍があたりの町に火を放ったが、鐘楼にのぼったふたりは火の粉を浴びながら撞きに撞いた。時刻は、暁である。城下はまだねむっているかもしれなかった。すでに前線がやぶれ、敵は城下にせまりつつある。かれらは「起きよ」と報せたかったのである。その鐘楼へ官軍の一隊が追撃してきた。長岡藩兵はすぐ抜刀して鐘楼をまもり、撞く者は撞き、守る者は守り、すさまじい白兵戦を演じ、やがて数人の者が斃れた。越後うまれの歌人相馬御風は、

夜は明けぬ   覚めよ起きよと   つく鐘の   ひびきとともに   散りし花はや

と詠んでいる。

維新の暁鐘
維新の暁鐘

維新の暁鐘

渡里町の西福寺にある『維新の暁鐘』と呼ばれる鐘です。戊辰戦争の折、政府軍による信濃川左岸からの急襲をしらせるため、打ち鳴らされました。

長岡藩主牧野家の菩提寺・栄凉寺にある河井継之助の墓。この墓がたてられた当時、長岡の人々は悲惨な戦争で長岡を焼け野原にした張本人の墓として、鞭や棒で打ち、蹴り倒したため、継之助の妻や母の心痛はたいそう大きかったそうです。

栄凉寺墓地内知名士の墓

栄凉寺墓地内知名士の墓

河井継之助の墓

河井継之助の墓

二見虎三郎の墓 ※現地案内板より

長岡藩軍目付 後に 統率隊長 河井継之助が長岡藩の運命を決めた小千谷談判に随行した唯一の長岡藩士。

栄涼寺 二見虎三郎の墓

栄涼寺 二見虎三郎の墓

小千谷談判に随行した二見虎三郎に関して、司馬遼太郎氏の『峠』に以下の記述があります。

(河井さんはあれでよほどへりくだっているつもりだったのだろうが、聞いていると、それどころか、威圧をくわえているようだった)
二見虎三郎はそうおもったが、当の交渉相手である官軍軍艦岩村高俊もじつはその点で不快だったらしく、後年、「河井はもとより嘆願にきたものである。それはわかっている。ところがその態度たるやじつに傲然としており、あたかも官軍が悪いかのように論難する勢いあり、その気焔ははなはだ揚がっていた」と語っている。

栄涼寺 三島億二郎の墓

栄涼寺 三島億二郎の墓

三島億二郎の墓 ※現地案内板より

河井継之助に非戦を説くが、後には奮戦戦後長岡藩大参事となり復興に尽力する。

越後長岡出身の、河井継之助・山本五十六・田中角栄、優れた資質を持ちながら、歴史に翻弄され悲運に終わった三人の偉才を描いた早坂茂三氏(田中角栄の秘書を23年間務められた)の著書:『怨念の系譜』
この中で早坂氏は、河井継之助も山本五十六も、長い時が経過しその評価が歴史的に見直された。虎の尾を踏みロッキード事件で失脚させられた田中角栄も改めて見直されることを望む、と書かれています。