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Last Updated: 13 August 2006

長岡駅から上越線で小出駅まで、小出駅から只見線に乗り換えて只見駅まで、所要時間はおよそ2時間弱。河井継之助終焉の地を訪ねました。司馬遼太郎氏がここを訪れた際、風光明媚なこの地は継之助が眠るに相応しいということで『山水相応蒼龍窟』という揮毫を残しています。

只見駅

只見駅

雪がまだ残っていました

只見駅からの眺望

叶津番所跡 現地案内版より

『八十里 こしぬけ武士の 越す峠』この句は慶応四年、八十里越を戸板の担架に乗って越した長岡藩家老河井継之助が詠じたものです。右手に通じる山道が八十里峠です。

叶津番所跡

叶津番所跡

叶津番所跡案内板

叶津番所跡案内板

叶津番所跡は、南会津と越後を結ぶ唯一の街道八十里越の番所で、物資の流出を監視し、旅人を取り締まっていました。戊辰戦争で会津が降伏するまで、代々長谷部家が守った番所です。

河井継之助記念館案内冊子より

慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、関東、東北、越後に拡大されていった。朝敵の汚名をうけた会津藩とその同盟軍は苦しい戦いを余儀なくされた。継之助は事を平和の裡に解決しようと東奔西走し、小千谷にかまえた西軍の軍監岩村精一郎と慈眼寺において談判したが決裂し、ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切り、さらに奥羽越の諸藩同盟を結成、その監督として善戦したが5月長岡城が落ち、その後7月25日の戦いで傷ついた。継之助は、親藩会津に逃れ再起をはかるため、千数百名と共に八十里越を会津に向かった。山越えは難渋を極め、山中に一泊して8月5日只見に着き、傷の手当を受けた。8月12日幕府医師、松本良順のすすめで会津若松に向けて出発、途中塩沢、矢沢宗益宅に投宿した。継之助は、すでに死期を予感し、従者松蔵に死期の準備を命じ、その夜静かな眠りに入った。時に慶応4年(1868)8月16日であった。

河井継之助記念館

河井継之助記念館

河井継之助記念館

河井継之助記念館

河井継之助記念館案内冊子より

ガトリング砲とは、1862年米国人リチャード・ガトリングが南北戦争の最中に発明した最初の機関銃で、1分間に200発もの弾丸を発射できる当時最強の兵器であった。継之助は、日本に3門しかなかったガトリング砲を武器商人スネルから2門1万両で購入した。長岡城攻防戦では、継之助自ら射手として西軍に対し、大手門の土手を盾に乱射したと伝えられている。河井継之助記念館所蔵のガトリング砲は、当時使用された機種(1868年型)をもっとも忠実に再現したものである。

館内に保存されている矢沢宗益宅

館内に保存されている矢沢宗益宅

ガトリング砲

ガトリング砲

ガトリング砲を手に入れた時の継之助の様子が、『峠』では以下のように記載されています。
「それに」
と、継之助は、この良運さんにだけガットリング砲の秘密をうちあけた。一分に三百六十発という、まるで竜吐水で水を撒くようないきおいで弾が出る。いまその一門が入っただけだが、おっつけもう一門か二門上海から直行してやってくる。この一門で三百六十人に匹敵するわけだから、長岡藩の武力はここ数日のあいだに十倍から十五倍に飛躍したということになるであろう。
継之助は、冷静であらねばならない。元来が、冷静な男だ。その男が、この兵器の群れをみたとき、思想も感情もゆらぐほどの圧迫と影響をうけてしまったのである。

司馬遼太郎氏の『峠』に、岩村との談判について以下のくだりがあります。

継之助は、小千谷を去った。官軍の大きな失敗だった。
とは、後年、長州人品川弥二郎はいう。品川は長州革命派の正統ともいうべき松下村塾の出身で、多年志士活動をし、この時期は京都にいた。ついでながら、最初この品川が北越方面の司令官になるよう内示があったが、どういうわけか品川はことわった。機敏な品川は、北越の様相が新政府が楽観するほど容易なものではないことを察知していたのかもしれなかった。とにかく後年、品川は、「そもそも河井の相手に岩村のような小僧をだしたのがまちがいのもとだ」と、男爵をさずけられた岩村高俊を小僧よばわりしている。

河井継之助が火葬された只見川
河井継之助が火葬された只見川

継之助が火葬された只見川。豪雪地帯のこの辺りは白鳥の渡来地だそうです。

矢沢宗益宅があった場所

継之助が息をひきとった塩沢の矢沢宗益宅はその子孫により建物が保存されました。現在は只見町が建設した河井継之助記念館の中に建物自体が保存されています。記念館に隣接した上の写真の場所に、記念館が建つ前まで保存されていたそうです。

司馬遼太郎氏の『峠』より以下、継之助が息をひきとる様子です。

「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
松蔵はおどろき、泣きながら希みをお持ちくださいとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなくなった。
松蔵は作業する足もとで、明かりのための火を燃やしている。薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。
「松蔵、火をさかんにせよ」
と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。

夜半、風がおこった。

八月十六日午後八時、死去。