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Last Updated: 13 August 2006

桂小五郎 (かつらこごろう)、木戸 孝允(きどたかよし) 天保4年(1833)~明治10年(1877)

桂小五郎旧宅

桂小五郎旧宅

桂小五郎旧宅

以下の紹介文は、司馬遼太郎氏の著書『世に棲む日日』より引用しました。

桂は、萩城下の藩医の家にうまれた。禄は二十石である。かれの生家はこの当時「江戸屋横丁」といわれた呉服町の一角に、いまも旧観のままのこっている。 木造瓦ぶき二階建七十二坪の屋敷で、いかにも医者の家らしく患者用の玄関と正玄関の二つの玄関がある。桂はここでうまれた。 七歳のとき、隣家桂九郎兵衛に乞われてその養子になったが、養子になってから二十日ほどで養父が死に、さらに養母が死んだため、かれは実家で成人し、少年の身ながら桂家の当主になった。桂家は家禄百五十石であったが、藩法によって少年のかれはそのうち九十石を相続した。かれがうまれつき大人びたところがあったのは、七つや八つのころから桂家の当主として、年頭やら法事やらのときに大人としてのつきあいをせざるをえなかったことにもよる。

桂小五郎旧宅
桂小五郎旧宅

萩市にある桂小五郎の旧宅

少年時代の小五郎は、無口で目立たない子どもだったようです。しかし、この平凡な少年は、ある人物との出会いによって、人生が180度変わります。その人物とは、吉田松陰です。

「木戸孝允さんは、あれは松下村塾の門人ではないんだ。世間はまちがっている」と、明治後、松陰の門人の品川弥二郎が萩のひとに語ったそうだが、確かに桂小五郎はそうではない。吉田松陰が萩城外の松本村で松下村塾をひらいた安政二年には、桂はすでに江戸にあり、剣客斎藤弥九郎道場の塾頭をつとめ、剣客としても志士的活動家としても、書生仲間での名士としてとおっていた。
桂は十二歳のときから藩校明倫館にかよってとくに漢学の講義をうけていたが、そのうち松陰がその明倫館の山鹿流兵学教授になって講義をはじめた(嘉永二年)ため、桂は兵学をまなぶためにそのゼミナールをうける手続きをとった。師弟といえばそういう形式のものであり、要するに官学教授吉田寅次郎の学生であったにすぎず、私塾における松陰の思想の弟子ではなかった。
「しかし木戸さんは篤実な人で、松陰先生に対し、門人の礼をとっていました。しかし実際には世話になったのは松陰先生のほうでしたろう」
と、品川弥二郎はいうが、そうかもしれない。のち松陰は江戸へ出てゆくと、桂を斎藤道場にたずねて、いろいろ頼みごとなどをしている。松陰のほうがはるかに子供っぽかったし、逆に桂は世故に長けているうえに、人の世話をすることも好きであった。

桂小五郎旧宅

桂小五郎旧宅

桂小五郎旧宅

桂小五郎旧宅

桂は晩年 といっても四十代だが、 明治政府のうるさい連中と話をしたりするとき、自分の経歴を語るときは口ぐせのように、
「癸丑以来(きちゆういらい)」
という言葉から語った。癸丑(みずのと・うし)の年とはペリーがきた嘉永六年のことである。このペリー来航から幕末の風雲がおこり、攘夷論が流行思想となり、自称他称の志士どもが出てくるのだが、要するに志士経歴としてはこの「癸丑以来」の連中がいちばん古いことになる。たとえば土佐の坂本竜馬の活動の開始時期は晋作と同様、これよりあとになるが、かれは薩摩の西郷隆盛を立てるときにはいつも、
「西郷はなんといっても癸丑以来の人だから」
と、いったりした。志士どもにもこの「癸丑」の年をさかいにして、多少とも先輩後輩の意識があったことになる。

桂小五郎旧宅

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桂小五郎旧宅

桂小五郎旧宅

桂小五郎旧宅

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木戸は桂小五郎時代は師の松陰とは異質の現実家であったにしても、明治にまで生き残ってみれば他の明治政府の官員連中にくらべて、いかにも「癸丑以来」の革命家らしい理想主義的気分があり、
「こういう政府をつくるためにわれわれは癸丑以来粉骨したわけではない、死んだ同志が地下で泣いているに相違ない」
と言い、それが憂鬱症の原因のひとつになっていた。

以上、司馬遼太郎氏の著書 『世に棲む日日』より引用しました。