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Last Updated: 13 August 2006
文久三年(1863)の八月十八日の政変、元治元年(1864)6月の池田屋事件と続き、怒り心頭の長州藩は先発隊約300名が率兵上洛。久坂玄瑞が山崎天王山に、来島又兵衛が嵯峨天龍寺に、福原越後が伏見に陣取って蛤御門の変(禁門の変)を敢行する。
結果長州軍は薩摩・会津軍に敗れる。桂小五郎は燃える鷹司邸を背に一人奮闘して切り抜け、幾松らの助けを借りながら潜伏生活に入る。その後長州藩士の残党狩りが盛んになり京都での潜伏が困難になったため、但馬の出石に潜伏する。
桂小五郎ゆかりの宿、城崎温泉「つたや」をご紹介します。
以下、城崎温泉「つたや」のリーフレットより引用しました。
元治元年七月、京都蛤御門の変が起こり、会津、桑名連合軍と戦い、長州藩利なくして敗走した。桂はひとり京都に留まっていたが、幕吏の追求が急となったので、愛人幾松が身を以って桂の窮地を救った。しかし桂は京の都に身を隠すところ無く、当時但馬国、出石町出身の広戸甚助と云う人を、桂は知っていた。
桂は甚助を呼び、彼の生国但馬へ遁れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助快く受け、その夜直ちに変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出て路々諸藩の関所を過ぎるのに、但馬国伊合村卯左衛門と名乗った。すでに丹波を過ぎて、但馬の国境久畑村に至った。此処は出石藩の関所があり、桂は関吏の尋問に遇い但馬弁でないのを知られ、関吏あやしんで追窮がきびしかった。吏は桂を捕縛しようとした。
甚助後れて来て、百万弁護したところ、吏の中に甚助の心易いものがいて、之により許されて危急を救った。虎口を遁れ、夜に入って出石に着き、甚助の旦那寺、昌念寺に潜んだが、会津藩士が出石に着き桂の行方を探索するので、桂は城崎温泉御所湯前の宿「つたや」に移った。時に元治元年九月のことであった。
当時つたや旅館は女戸主で、一人娘たきと言うものがいて、桂の境遇を悟って非常に親切であった。桂は入浴して心身を休めて後のはかりごとをめぐらした。桂はつれづれの間に出石町に出て、八百屋の店番を勤めたりしていた。
その頃幕府は第一次長州征伐を行い、家老福原等を誅して藩主父子を監禁した。桂はこれを聞くたびに悄然大息して心より悲しんだ。 長州再興を幕府と戦うに当り、桂を探し其の帰藩を望む。愛人幾松長州より城崎湯島の里へ尋ねて来て、長藩の大勢を告ぐ。 共につたや旅館に泊まって入浴し長州に帰り木戸と改名す。 当時桂は三十三才であった。
その後高杉晋作が率いる正義派による功山寺挙兵が成功、桂小五郎は長州藩政権の統率者として迎えられ、藩政を改革し薩長同盟の締結などに尽力していく。