(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 6 August 2006
元治元年(1864)12月15日夜半、遊撃隊、力士隊を率いて、高杉晋作は挙兵しました。かつて馬関と呼ばれた下関市長府にある功山寺。この寺から幕末動乱の幕は開かれます。寺に潜居していた三条実美ら五卿に『これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す』と決起表明し、馬上の高杉晋作は雪中を駈け抜けました。
功山寺は下関市長府にある曹洞宗の寺で、長府毛利家の菩提寺です。ここは周防・長門を支配した戦国大名大内家の最後の当主:大内義長が、毛利元就軍に囲まれて自刀した地でもあります。義長の死により西国の名門大内氏は滅亡し、この地は毛利氏の支配下となりました。
大内義長辞世の句
誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ
晋作は九州から下関に戻りましたが、決起の同調者を得られず悶々としていました。ついには業を煮やし死を決意して(晋作は白石正一郎の弟大庭伝七に遺書を書き送り、墓銘に「西海一狂生東行墓」と彫り、その横に「故奇兵隊開闢(かいびゃく)総督高杉晋作」と刻んでくれと依頼しています)、最後の説得のため長府へ向かいます。この頃長府には西下した五卿が功山寺に投宿しており、五卿警護のためと称して奇兵隊はじめ諸隊が屯集していたのです。
晋作は奇兵隊らに対し必死の説得をしましたが、長人怜悧と他藩の者から嘲笑されていた通り、山県狂介以下奇兵隊の壮士すべてが晋作に対して冷淡でした。唯一晋作と生死をともにする覚悟をもっていた伊藤俊輔だけが力士隊30名を率い決起を決意し、その後他藩脱藩浪士の集まりである遊撃隊50名がこれに加わります。
文久3年(1863)に起こった八月十八日の政変において、公武合体派に敗れて失脚した尊皇攘夷派の三条実美・壬生基修・三条西季知・東久世通禧・錦小路頼徳・澤宣嘉・四条隆謌ら7人の公卿が京都から追放され、長州藩へと逃れました。翌元治元年(1864)第一次長州征伐おいて長州藩は恭順の証として五卿(2名は病没、潜伏)を大宰府に移すことにします。山口から太宰府への移送の途中、五卿はここで二ヶ月を過ごすことになりました。
この後、高杉晋作らは下関の馬関総奉行を襲い公金を奪い、また一部の決死の士を選抜し、早船を雇い海路70Kmにある三田尻海軍局の軍艦三隻を奪うことに成功しました。下関をまかされていた伊藤俊輔は晋作が艦隊をひきいてもどってくるのを見て、奇跡を見るような思いだったそうです。これにより、力士隊、遊撃隊以外の諸隊もいよいよ決起し、一路萩へ向かいます。
功山寺