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Last Updated: 11 March 2007

北九州市の小倉城と馬関(下関)を紹介します。馬関は晋作が27歳と7ヶ月という短い生涯を閉じる地となります。

司馬遼太郎氏の『街道をゆくシリーズ  甲州街道、長州路』に、
下関は、正しくは赤間関といった。しゃれて赤馬関とも書き、転じて儒者好みに馬関とよばれたのが、この港町のよび名になった。とあります。

この町の海岸は幕末では海峡を漁場とする一本釣りの漁師の家がならび、魚が新鮮なために料理屋が多く(いまは旅館しかないが)、長州をはじめ諸国の志士で下関にやってくる者はかならずこの阿弥陀寺の魚屋の座敷を借りて酒を飲み、会合した。そのあとは稲荷町や裏町へ出かけて行って妓を買う。この点、京の祇園以上に彼らにとって縁の深い町だが、いまは下関のさびれとともにさびれている。

『歴史を紀行する』維新の起爆力・長州の遺恨、より。

小倉城
小倉城

小倉城

慶応2年6月、幕長戦争が勃発。戦は芸州口、石州口、大島口、そして九州小倉口という国境でおこなわれたので、これらの戦いをまとめて、「四境戦争」ともいいます。小倉城には幕府軍2万が配置され、関門海峡を渡って下関に攻め込む勢いを見せました。この方面の長州の指揮をまかされたのが、高杉晋作でした。
因みに石州口は村田蔵六(大村益次郎)です。またこの頃高杉晋作は海軍総督でもあり、前月に長崎でグラバーから購入した丙寅丸(オテントサマ丸)に乗り込んで、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を襲撃し、周防大島を奪還する活躍も見せています。

現地案内板より

明治八年に歩兵第十四連隊が小倉に設置された。十八年には小倉城松の丸跡に既設の第十四連隊と福岡の歩兵第二十四連隊とを管轄する歩兵第十二旅団本部が開設された。ついで、二十九年、西部都督部が歩兵第十二旅団本部跡に開庁した。三十一年、これらの隊と下関要塞砲兵連隊、並びに北方に創設された各隊を以て第十二師団が生まれ、その指令部庁舎が本丸跡に建てられた。この煉瓦づくりの正門は当時のもので、同三十二年六月から約三年間第十二師団の軍医部長を努めた森鴎外もこの門を通って登庁した。なお司令部は軍縮により大正十四年久留米に移転することになる。

第十二師団指令部跡

第十二師団指令部跡

第十二師団指令部跡

第十二師団指令部跡

以下『世に棲む日日』より引用しました。

その後、7月3日の第二次九州攻撃にも晋作は戦争の総指揮をとった。激戦のすえ、幕軍の大里本営を占領した。
次いで7月27日の第三次九州攻撃にも晋作は陣頭に立った。目的は小倉城を抜くにあり、これがため激戦が連続し、長州兵は敵塁に迫っては退却し、さらに進むなど一進一退を繰りかえしたが、戦局が不意に好転したのは29日になってからであった。閣老小笠原長行が小倉城をぬけ出し、軍艦富士山艦に投じて逃げてしまったのである。自然、九州諸藩の藩兵も解散同然になった。残された小倉藩としては孤軍でいくさ馴れした長州軍に立ちむかう自信がなく、みずから城の一部を焼いて逃げ、領内田川郡の山地にこもった。
晋作は平装のまま小倉城下に入り、城へのぼり、城頭に高く「一字三星」の毛利家の旗をたてさせ、しばらくそれをながめていたが、やがてあとの始末は佐世八十郎(前原一誠)や山県狂介らにまかせ、ふたたび小舟に乗じて下関にひきかえし、白石屋敷にもどった。

厳島神社(下関)にある大太鼓(直径1.1m、重量390Kg)

この大太鼓は小倉城のやぐらに吊るされていたものですが、慶応2年(1866)の「小倉戦争」で幕府軍に勝利した高杉晋作が持ち帰り、戦勝を記念して当神社に奉納したものです。

大太鼓1
大太鼓2

厳島神社(下関)にある大太鼓

日和山公園の高杉晋作陶像

以前は銅像だったらしいのですが、第二次世界大戦の金属出陣で失われ、現在は備前焼の陶像で再建されています。こういう話は結構ありますね。 本サイト人物別分類に掲載しております福岡市西公園近くにある福岡藩平野国臣の銅像も前大戦で武器や砲丸にするために、 金属出陣で供出させられ、戦後の昭和39年に再建されています。

高杉晋作陶像1
高杉晋作陶像2

日和山公園の高杉晋作陶像

日和山公園階段

日和山公園の高杉晋作陶像は高台にあります。

高杉東行(晋作)療養之地

慶応2年(1866)の第二次長州征伐中に肺結核のためにたおれた晋作は、戦列を離れこの地で病を癒します。

高杉晋作療養之地

高杉東行(晋作)療養之地

以下『世に棲む日日』より引用しました。

晋作の発病は、小倉落城以前である。かれは発病後も、風浪を衝いて海峡を押し渡り、小倉戦争を指揮している。この間、風邪をひいた。
「いまでいう肺炎」
と、妻のお雅が晩年語っているその症状が、小倉落城後に出た。しかし肺炎ではなく、風邪であろう。ほどなく高熱は去ったが、衰弱がつづいている。

九月四日朝、晋作はしきりに咳をし、やがて痰を紙に吐くと、そこに血がまじっていることを知った。風邪ではなく、これは肺病である、と、かれみずから自分の重病を自覚したのは、このときであった。この病気はひとに感染するであろう。晋作はそう思い、白石家を去るべく、山県に療養すべき家を物色してもらった。
「肺病の姿に相成り」
と、井上聞多に手紙を送ったのは、九月二十九日である。

高杉晋作終焉の地
高杉晋作終焉の地

高杉晋作終焉の地

新地の豪商林算九郎邸の離屋に病床を移し、倒幕の悲願達成を目前にした慶応3年(1867)4月14日、この地で波乱に満ちた生涯を閉じました。享年27。

以下『世に棲む日日』より引用しました。

晋作の生涯は二十八年でおわる。師の松陰のそれよりも一年みじかい。
が、晋作は松陰の死後、八年ながく生きた。この八年の差が、二人の歴史の中における役割をべつべつなものにした。この八年のあいだ、時勢ははげしく転々し、幕府の勢威は大いにおとろえた。八年前、幕府の勢威は長州藩を戦慄させるに十分の力をもっていたことをおもうべきであろう。なにしろ松陰というほとんど無名にちかい書生を、一令のもとに萩からひきずりだして江戸伝馬町の獄舎に投じ、さらには虫でも潰すようにして刑殺するほどであったが、八年後の情勢のなかにあっては、その書生の門人である高杉晋作のために幕軍の牙営である小倉城が攻めおとされ、幕軍副総督小笠原壱岐守長行が城を脱出して海上に逃げ去るという事態になった。晋作は、松陰より八年ながく生きることによって、そのことをなしとげた。