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Last Updated: 20 February 2010
高杉晋作は、萩の城下菊屋横丁で父小忠太、母道の子として生まれました。高杉家は代々藩の重要な役職についていました。幼少時代は剣道に励みたくましく育ちます。19歳で吉田松陰の松下村塾に入門。ひとつ年下の久坂玄瑞と競って勉強し、晋作は『鼻輪も通さぬ放れ牛、束縛されない人』、玄瑞は『政庁に座らせておけば、堂々たる政治家』とたたえられ、のちにふたりは松下村塾の双璧と呼ばれるようになります。
萩にある高杉晋作の誕生の地をご紹介します。
菊屋横丁(きくやよこちょう)は、山口県萩市春若町から南古萩町に至る全長0.5kmの萩市道春若町南片河線の通称である。萩藩の御用商人であった菊屋家住宅の脇を通る横丁であることから付けられている。
萩市を象徴する道として、旅番組、ドラマ、映画に頻繁に登場する。
萩城の城下町に位置したこの道は、延々と続く白壁(なまこ壁)が美しいことから、日本の道100選に選ばれている。
以下『世に棲む日日』より引用しました。
性格が奇妙で、温厚な人柄ぞろいの高杉家の大人たちに将来を不安がらせた。祖父の春豊(はるとよ)などは、生涯、晋作については心労し、
「どうか晋作が大それたことを仕出かしてくれませんように」と、たえず祈っていた老人だが、晋作のこのころからその心配が募りはじめていた。
「この子は、まともな大人になれないのではないか」と、晋作の父小忠太にささやいたりした。小忠太も温良な君子人で、もし晋作の代になって高杉家がつぶれるようなことになれば先祖に申しわけない、とあれこれゆくすえを考えていまから気に病んでいるといったたちの人物であった。
高杉家というのは、代々藩の中級官僚を出してきて、いわば能吏の家系といっていい。とくにここ五代ばかりが粒ぞろいで、藩主の側役や、財務官、地方行政官などに任じて、大功はなかったにせよ、ほとんど小過すらなかった家として家中でもめずらしがられていた。
高杉晋作旧宅内 ※現地案内板より
この旧宅は、家禄二百石を受けていた、父 高杉小忠太宅で、現存する当時の建物は座敷(六畳床間付)次の間(六畳)居間に(六畳、四.五畳)小室に(三畳)のほかに玄関、台所があります。土蔵納屋もありましたが、現存しておりません。
司馬遼太郎氏の著書『世に棲む日日』には、晋作が始めて久坂玄瑞に連れられ松下村塾をたずねたときの様子が次のように書かれています。
松陰はうなずき、ふたたび顔を伏せて高杉の文集を読んだ。
やがて顔をあげ、最初にいったことばは、高杉が終生わすれられぬところであった。
「久坂君のほうが、すぐれています」と、いうのである。
高杉は、露骨に不服従の色をうかべた。
(おもったとおりだ) と、松陰はおもった。
人を見る目が異常にすぐれている松陰は、この若者が、裏へまわってここへ入ってきた最初から、尋常でない男がやってきたという感じがした。ふてぶてしいというわけではないが、渾身にもっている異常なものを、ところどころ破れてはいても行儀作法というお仕着せ衣装で包んでいる。それも、やっと包んでいる。
奇士が、二人になった。 と、松陰はおもった。
「松下村塾の目的は、奇士のくるのを待って、自分(松陰)のわからずやな面を磨くにある」
と、かねて友人たちに洩らしている自分の塾の目的にみごとにかなった人物が、久坂のほかにいま一人ふえたという思いが、松陰をひそかに昂奮させている。
高杉晋作誕生地発行案内紙より
文久3年(1863)3月16日、頭をそって東行と号したとき京都にて詠んだ歌
西へ行く人をしたひて東行く
心の底そ神や知るらむ
(意)西行を慕って頭を丸めたけれども自分の心は逆に東へ行くのだ。その心は神だけが知っているだろう。
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