交通:JR小月駅下車バス10分東行庵入り口下車徒歩10分

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Last Updated: 5 October 2008

吉田郷は下関より東北へ六里、葬列は十六日の日没後、下関を出発した。すべて神式によった。参列者は三千人、それぞれ松明をかざし、星が動き、火が動き、長州におけるあらゆる儀式のなかで空前の盛儀であった。墓域たるべき清水山の山頂に棺が到着したのは、夜十時である。

司馬遼太郎著『世に棲む日日』より引用しました。

現地案内板より

この地は清水山と称し 幕末の頃 奇兵隊軍監 山縣狂介(やまがたきょうすけ)(有朋ありとも)は麓に草庵を建て無隣庵(むりんあん)と名付けていた。慶応3年(1867)4月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅処 ばいしょ)は黒髪を断って出家したので、山縣は明治2年(1869)無隣庵を梅処に贈り欧州に旅たった。現在の庵は明治17年伊藤博文・山縣有朋・井上馨(かおる)等全国諸名士の寄付により建立されたもので、梅処は明治42年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。
昭和41年東行の百年祭を機に庵の原型をとどめるため大修理を行った。

東行庵

東行庵

旧吉田街道

東行庵傍を通る吉田旧街道

東行庵

東行庵

東行庵

東行庵

現地案内板より

高杉晋作(号東行)は天保10年(1839)二百石の長州藩士の長男として萩に生まれた。18歳にして生涯の師吉田松陰の松下村塾に入門したのを転機に希代の革命戦略家として頭角を現す。文久3年(1863)長州藩が外国艦隊と砲火を交えるに及んで奇兵隊を組織自ら初代総督となる。以後各地に討幕戦を指揮し明治維新のさきがけとなったが慶応3年(1867)4月13日(命日は14日)下関において結核のためその雷電風雨の如き27歳8ヶ月の生涯を閉じた。
遺言によりここ奇兵隊本拠地吉田清水山に土葬される。

東行 高杉晋作の墓

東行庵 東行(高杉晋作)の墓

高杉晋作銅像
高杉晋作顕彰碑

高杉晋作、東行の墓の近くには、伊藤博文が彼を顕彰した大きな碑があり、『動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし』と刻まれています。

慶応3年(1867)4月14日、病床に臥せた高杉晋作は、筆と紙を求め、最期の力をふりしぼり「おもしろきこともなき世をおもしろく」と書きました。そこで力尽き、筆を落としてしまいます。
すると枕元にいた福岡藩の勤皇女性・野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と書き継ぎました。それを読んだ晋作は「おもろいのう」とほほえんで息を引きとりました。

おもしろき・・

おもしろきこともなき世をおもしろく・・・石碑

梅処尼の墓

晋作の墓を道をへだてて小さく質素な梅処尼(おうの)の墓があります。

梅処尼の墓

梅処尼(おうの)の墓

赤根武人の墓

真は誠に偽りに似 偽りは以って真に似たり(辞世の句)

赤根武人は柱島(現岩国市)の医家に生まれました。
長じて勤王僧月性の門に学び、のち吉田松陰、梅田雲浜を師友とし京都江戸の間を往来して大いに国事に尽くします。文久3年9月高杉晋作のあとをうけて騎兵隊総督になり下関で外国艦隊と戦いました。しかしその後藩論統一について過激派と合わず、上京して幕府に近づき長州の立場を説明しようしますが、これを幕府と内応したものと見て捕らえられ反逆罪で処刑されました。時に慶応2年1月25日、享年28歳でした。

赤根武人の墓

赤根武人の墓

僧月性

文化14年(1817)妙円寺に生まれる。尊皇攘夷論者として幕末に活躍、萩の吉田松陰とも親交が厚く、近代日本の夜明けに大きく寄与した人物です。清狂草堂は月性の開いた私塾で多くの優秀な塾生を輩出しました。
安政5年(1858)11月16日の明け方に、西郷と抱き合って錦江湾に身を投じたのは僧月照です。

司馬遼太郎記念碑

ここには司馬遼太郎さんが『街道をゆく』で長州を訪れた時に表現された一言、 「長州は奇兵隊の国である」が刻まれています。