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Last Updated: 4 April 2010

慶応元年(1865)、黒田藩の勤皇派弾圧により野村望東尼は姫島に流されますが、翌年高杉晋作の指揮により救出され、下関の白石正一郎宅にかくまわれます。慶応3年(1867)には三田尻の歌友:荒瀬ゆり子宅に身を寄せました。

防府天満宮 野村望東尼胸像

防府天満宮 野村望東尼の像

防府天満宮 野村望東尼献歌碑 ※現地案内板より

勤皇の歌人、野村望東尼は慶応3年秋、討幕軍の当地船出にあたりその戦勝祈願のため防府天満宮に七日まいりして毎日和歌一首を手向けられた。碑の歌は、その初日の献歌である。又この碑の石材は全部玄界灘の姫島から運ばれたものである。

防府市野村望東尼会

防府天満宮 野村望東尼献歌碑

防府天満宮 野村望東尼献歌碑

防府天満宮 野村望東尼献歌碑

防府天満宮 野村望東尼献歌碑

山口県指定史跡 野村望東尼 終焉の宅 及び 宅跡 並びに墓  【現地案内板より】
野村望東尼は1806年(文化3)9月6日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、その名を「もと」と称しました。24才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、夫婦共に和歌をたしなみ、54才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。
1861年(文久元)京都に上った望東尼は、尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。1865年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。
1867年(慶応3)薩長連合の討幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参詣し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、討幕軍の戦勝を祈願しました。しかし老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年11月6日に62才の生涯を閉じました。

  • (1日目) 武夫(もののふ)の 仇に勝坂越えつつも 祈るねぎごと うけさせ給え
  • (2日目) 濃染(こぞめ)なす ます穂のすすき穂に出て 招くになびけ 千草八千種
  • (3日目) 御世を思う やたけの心の一筋も 弓取る数に 入らぬかひなさ
  • (4日目) あずさ弓 引く数ならぬ身ながらも 思ひいる矢は 唯に一筋
  • (5日目) 道もなく 乱れあひたる難波江の よしあしわくる 時やこの時
  • (6日目) 唯七日 我が日まいりの果てなくに 神無月とも なりにけるかな
  • (7日目) 九重に 八重居る雲やはれむとて 冬たつ空も 春めきぬらむ

望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。

野村望東尼終焉之地

野村望東尼終焉之地 防府市三田尻本町10-2

野村望東尼終焉之地
野村望東尼終焉の室

野村望東尼終焉の室 防府市岡村町5-3

野村望東尼之墓 桑山南麓(桑山1丁目付近)

野村望東尼之墓

野村望東尼之墓

防府 桑山 野村望東尼の墓近辺

野村望東尼の墓がある桑山公園南麓

防府 桑山 野村望東尼の墓近辺

野村望東尼の墓がある桑山公園南麓