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Last Updated: 13 August 2006
志士の母、野村望東尼(ぼうとうに)をご紹介します。司馬遼太郎氏の著書『世に棲む日日』の中では『もとに』と書かれています。
文化三年(1806)、三百石の福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれました。名を『もと』といい、十七歳の時に知行五百石の郡利貫に嫁ぎますが、すぐに破局を迎えます。
その後、和歌や書道を学び、二十四歳の時に福岡藩馬廻役野村新三郎貞貫(さだつら)の後妻となりました。夫には、先妻との間に三人の男子がいました。また望東尼も四人の女子を産みますが、皆早世してしまったそうです。 しかしながら夫婦仲は良く、ともに歌道を極めようと学びました。夫と相愛の暮らしの中にも、
「かりがねの帰りし空をながめつゝ 立てるそほづ(かかし)は我身なりけり」
と、主体的に生きられない女の苦しみ悲しみや焦燥を詠んだ歌が多くみられます。
夫の死後出家して望東尼と称し、現在の福岡市中央区平尾にあった隠居所、「平尾山荘」と町家とを行き来して、学問芸術に親しんでいたそうです。望東尼が四十歳の時、この山荘には多くの志士が出入りし、特に高杉晋作とは深い親交がありました。
元治元年11月の中旬、望東尼がこの平尾山荘に住んで20年近くたった頃、晋作は藩の佐幕派である俗論党に追われ、谷梅之助の名で長州を逃れました。晋作は、多くの志士たちが頼りにしていると聞く望東尼を頼りに平尾山荘を訪れたのでした。晋作はこの山荘で約10日間を過ごし、多くの志士たちと会いました。晋作は長州を外部から改革することは難しいと悟り、内部からの改革を目指して長州へ戻ります。
『まごころを つくしのきぬは 国のため 立ちかへるべき ころも手にせよ』
旅立ちの朝、望東尼は自らの手で縫い上げた着物一揃いとこの歌を添えて晋作に手渡したと言われています。晋作をかくまった翌年、望東尼は志士たちの隠匿の罪で福岡藩にとがめられ、60歳の身で玄海灘の姫島に流罪となりました。
このときに詠んだ歌、
『咲きもせで散るさへあるを桜木の枯れ木ながらになに残るらむ』
亡くなった同志を弔うため般若心経を写経し、吹きさらしの四畳牢の中、食べ物を運んでくれる島民に支えられ、1年弱をここで過ごします。
『冬の夜の嵐にも漕ぐ釣り舟を 見ればひとやの我ぞ安けき』
という碑が流刑の地に建てられています。
流刑地の望東尼を晋作は心配してやまず、しかし小倉戦争後肺結核になった晋作の体調は悪化する一方で、信頼する者に頼み救出に向わせました。慶応2年9月17日、望東尼は下関の白石正一郎のもとに身を寄せました。望東尼は病で倒れた高杉晋作を看病する愛人おうのを支え、助けたといいます。また、晋作の正妻の雅子が訪れる日は、雅子とおうのの緩衝役となりました。
死の床で晋作が「おもしろきこともなき世をおもしろく」と詠じて力尽きた時、 「すみなすものはこころなりけり」と下の句を続けて読んだことは有名です。
福岡市中央区平尾 平尾山荘