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Last Updated: 25 April 2010
【中津の歴史】
天正15年(1587) 豊臣秀吉が黒田如水に豊前国16万石を与える。
慶長 5年(1600) 筑前を領有していた小早川秀秋は関ヶ原の戦功により備前国岡山藩に国替となった。
これにともない黒田長政も戦功により筑前52万石に国替となる。
同年細川忠興が豊前国と豊後国合せた39万石で入封。
寛永 9年(1632) 細川家の熊本藩国替に伴い、小笠原長次が8万石で入封。
享保 2年(1717) 奥平昌成が10万石で入封、明治維新までつづく。
村上天皇を祖とする奥平家は、群馬県甘楽郡を発祥とする関東武士であった。三河の国に移り奥平家第二十六代貞能公を以て初代とする。嫡男信昌公は三河の国長篠城主で天正三年(1575)天下統一をめざす武田勝頼軍一万五千騎と二十八日間にわたり激戦・籠城をし、落城寸前で織田・徳川連合援軍の鉄砲隊の活躍を得て大勝利を収めた。この軍功(長篠の合戦)により信昌公は家康公の長女亀姫を娶り、徳川幕府三百年の親藩となる。亀姫は四人の男子をもうけ長男家昌公は奥平宗家を継ぎ、二男から四男は家康公の養子となり、松平姓を名乗った。四男松平忠明は初代大阪城主や姫路城主も務めた。奥平家は長篠の合戦後、愛知県新城城・岐阜県加納城・栃木県宇都宮城・京都府宮津城を経て享保二年(1717年)奥平家第七代昌成公が当地中津に入城する。以後九代にわたって藩政の改革や蘭学の奨励など数多くの功績を残し第十五代の昌邁(まさゆき)公まで一五五年間中津で活躍し明治維新をむかえた。藩祖を祀る奥平神社では長篠の合戦当時を偲び毎年五月二十一日に「たにしまつり」を盛大に執り行っている。
西南の役の中津隊隊長増田宋太郎は、中津藩士増田久行と国学者渡辺重名の娘刀自(とじ)の長男としてこの地で生まれた。福沢諭吉とは再従兄弟にあたり、家もすぐ近くであった。幼少の時から桜町の道生館に入り国学を学んだ。尊王攘夷運動や自由民権運動で、諸国の志士と交わり、中津共憂社を結成した。一時期、福沢諭吉の慶応義塾に入り学んだともいう。村上田長によって、自由民権・主権在民を掲げた「田舎新聞」が創刊されると、編集長をつとめた。明治十年、西南の役が勃発、同志と中津隊を結成し、西郷軍(薩軍)に加わった。四月五日、熊本県の阿蘇郡で西郷軍と合流し、各地で奮戦するも、終に九月鹿児島の城山で没した。鹿児島市の城山公園の下、南洲墓地には「中津隊士之墓」と「増田宋太郎墓」がある。また中津城公園地には、水島銕也によって「西南役中津隊之碑」の大顕彰碑が建てられている。
壮士悲秋歌並反歌 増田宋太郎
武士と名に負ふ吾も 正心夫と於もへる吾も
ひさかたの空に向かひて 野千玉の月を悲しみ
白露の身にしむ夜半に 秋風のたたずみ居つつ
荒妙の袖しぼるべき時は来にけり
反歌
照る月の影をゆしみ剣太刀とりてぞしぬぶ秋の夜な夜な
明治十年八月二十二日 日向国三田井ニテ
楳谷安良
幾年か於も比こめにし真心を都つしの国に今盡す南利
創業320年をこえるうなぎ料理の老舗 中津市桜町1081
謡曲「清経」は、平重盛の三男清経とその妻との恋情が、戦乱の中で苦しみ合う様を清経の入水を通して描き出された曲である。
都落した平家は、豊前の国柳が浦の沖で大敗した。傾く一門の前途を歎き、戦いの無残さに苦しむ清経は、月の夜に柳が浦で入水自殺をとげた。家臣淡津三郎は、遺髪を清経の妻に届け、事の次第を語る。夫の非命の死を怨む妻の前に清経の亡霊が現れて、死を選んだ心境を語り、敗戦の様子を見せるうちに、修羅の苦しみは念仏を得て成仏するのである。
駅館川に架る小松橋の名は、小松内府平重盛の領地に因んで呼ばれたものという。この五輪の墓石は、もと柳が浦若宮八幡宮境内にあったという。その移転の理由は定かではないが、入水した場所に近いためという。
【奥平家(十万石)】 ※現地案内板より