廣瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)です。
咸宜の意味は「みなよろし」という意味らしく、どんな身分の人でも平等に受け入れる、ということで名づけられたそうです。大村益次郎、高野長英、上野彦馬らもここで学びました。
ここは、幕末の儒者廣瀬淡窓(1782〜1856年)の私塾咸宜園のあとである。淡窓は、文化二年(1805年)24才の時、豆田町の長福寺を借りて開塾したが、2年後に桂林荘(けいりんそう)を中城川の側に建ててそこに移った。その後、文化14年桂林荘をこの地に移し、新たに咸宜園と名づけた。以来、旭荘、青邨、林外等に承けつがれ、明治30年までの90年間に、全国から集まって来た約4,800人の子弟を教授した所である。
当時は、道を挟んで西側に考槃樓(こうはんろう)などの西塾があり、東側の東塾には、この秋風庵の外、心遠処、遠思樓、講堂などが建ち並んでいた。遺構としては、と遠思樓及び西塾の車井戸のみが残っている。秋風庵は、淡窓の伯父月化(俳人)が天明元年(1781年)に建築したもので、東西8間半、南北3間半、東南に2階を持つ草葺の建物である。淡窓は安政3年(1856年)ここで没した。現在でも秋風庵のまわりには、その頃の形態をとどめており往時をしのぶことが出来、学術上の遺跡として重要な文化財である。
昭和7年7月22日国の史跡に指定されている。
平成13年3月 日田市教育委員会
遠思楼 ※現地案内板より
史跡咸宜園の一角に建つこの二階家は、嘉永2年(1849)廣瀬淡窓が68歳のときに書斎として建てられ、遠思楼と名づけられた。淡窓はこの楼を好んで使い、階下は書庫とし眺望のよい階上では読書や思索のほか門弟や知人たちと詩会を催し、月や雪をめでて小宴や談話を楽しんだりした。
明治維新以降塾の衰退によって、明治7年(1874)には中城川畔に移され、多少の改修を加え民家として使われていた時期もある。昭和29年(1954)には、淡窓忌百年祭の記念事業として淡窓の居宅である「秋風庵」の裏に還された。
老朽化に伴ない、文化庁の補助を受けて保存修理工事が行われ、平成13年、往時の場所に素朴なたたずまいが復元された。
淡窓の漢詩集「遠思楼詩鈔」は、この建物に由来しこの楼の名を世に知らしめている。
日田市教育委員会
史跡 咸宜園跡 ※現地案内板より