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大村益次郎の肖像画は、イタリア人のエドアルド・キヨソネ(画家・彫刻家)によるものです。西郷隆盛の肖像画も有名ですが、同じくキヨソネの作品です。キヨソネは明治政府に雇われ国内初の西洋式紙幣(国立銀行紙幣)のデザインをするなど、この時期に活躍しています。
大村益次郎は司馬遼太郎氏著『花神(上中下3巻)』に詳しく記されています。
東京は過去少なくとも二度の大きな戦災をこうむっていたかもしれない。一度は太平洋戦争。これはことごとく東京を焼き尽くした。もう一度は、百三十年ほど前、江戸と呼ばれていたこの町が東京に生まれ変わろうとする上野戦争においてである。
だがこの時、まず江戸を戦火から救うべくひとり作戦に苦しみつつ、それをみごとなしえた一人の戦術家があった。
五十年ほど前、男の故郷の古い襖の下張りの中から、無造作に張られていた数多くの彼の書状にまじって、その時の苦心をのぞき見ることのできる貴重な資料が発見されている。
今、東京九段の丘からはるか上野を望むこの男、大村益次郎は、たった一つ、兵を動かす天才だけをもって、にわかに幕末の風雲の中に登場してくる。
以上、『司馬遼太郎の日本史探訪』より引用しました。
和暦年(西暦) | 大村益次郎年譜 / 主な出来事 |
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文政 7年 (1824年) |
周防国の鋳銭司村(現在の山口市鋳銭司)で村医者の長男として生まれる。 |
天保13年 (1842年) |
防府(三田尻)でシーボルトの弟子、梅田幽斎に医学・蘭学を学ぶ。 |
天保14年 (1843年) |
豊後国日田の広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)に入塾。 ※咸宜とは「みなよろし」の意味で、身分を問わず入塾が可能であった。四書五経・数学・天文学・医学など多岐にわたる学問の講義が行われた。 およそ90年間の塾生は約4800人といわれ、当時日本最大級の私塾であった。 |
弘化 3年 (1846年) |
大坂に出て緒方洪庵の適塾で学び塾頭まで進む。この頃長崎にも遊学。 |
嘉永 3年 (1850年) |
帰郷し四辻で開業、村医となる。村田良庵と名乗る。愛想無く物言わぬため、村医者としての評判は悪かった。この頃結婚している。 |
嘉永 6年 (1853年) |
宇和島藩から招請され夫婦で宇和島に移る。
この間、長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行い、提灯屋の紙を張り替えるだけの職人である嘉蔵(かぞう)= 前原巧山(まえばら こうざん)
とともに、国内初の蒸気機関の造船に挑戦。 ※『伊達の黒船』(司馬遼太郎氏著『酔って候』に収録) 長崎では二宮敬作よりシーボルトの娘で医学修行中の楠本イネを紹介される。この頃、村田蔵六と名乗る。 |
安政 3年 (1856年) |
宇和島藩主伊達宗城(だて むねなり)の参勤にしたがって上京した益次郎は、麹町に「鳩居堂」を開塾。蘭学・兵学・医学を教える。 |
安政 4年 (1857年) |
幕府の講武所教授となる。 |
万延 元年 (1860年) |
江戸で故郷の長州藩士となる。 |
文久 3年 (1863年) |
萩に帰国。博習堂の洋学教授となる。この頃、山口の普門寺塾でも兵学を教えた。 ※博習堂は安政3年(1856年)洋学教育を目的に、明倫館より分離された。 |
慶応 元年 (1865年) |
大村益次郎と改名、藩政改革における軍事体制の整備を担当。 ※高杉晋作がつけたあだ名「火吹き達磨」と呼ばれる。 |
慶応 2年 (1866年) |
幕長戦争(第二次長州征伐)において石州口方面の指揮を担当、浜田城を陥落させる。 |
明治 元年 (1868年) |
上野戦争において彰義隊を破る。 |
明治 2年 (1869年) |
箱館の五稜郭を制圧し戊辰戦争が終結。兵部大輔に就任。 同年9月4日、京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負う、 大坂鈴木町の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、敗血症のため容態が悪化、11月5日死去。 |
もともと藩士ではなく、長州をはなれ江戸で蘭学医としての人生を歩んでいた大村益次郎(当時は村田蔵六)に大きな転機があらわれたのはひょんなことからでした。某が『貰い子を殺した女が死刑に処せられ、幕府は腑分けを許してもよいという。その役にだれもがあなたを薦している』というのです。蔵六はあっさりとこれをうけます。
安政6年(1859年)の10月29日、場所は小塚原の刑場。偶然この2日前、伝馬町の獄舎に投獄されていた吉田松陰が斬首されておりました。その遺骸をもらい受けるため、長州藩の桂小五郎と伊藤利輔(博文)はこの小塚原の刑場に来ていました。その帰りに桂小五郎はこの場所で死囚の解剖をしている村田蔵六を見かけます。あのひとはどなたです、と人にきくと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」といわれて、同郷の蘭学医を思い出すのでした。桂小五郎が、のちの倒幕軍の総司令官、わが国近代兵制の創始者となった大村益次郎こと村田蔵六を見出したのは、じつにこの時期、この小塚原の刑場だったのです。
司馬遼太郎氏の著書:『王城の護衛者』の「鬼謀の人」に次のようなくだりがあります。
村田蔵六、のちの大村益次郎。
幕末のぎりぎりのときに官軍参謀として彗星のようにあらわれたこの天才的な戦術家は、桂に知られる最初から、一種数奇なふんい気をおびている。「地下の松陰がひきあわせたのか」と桂は晩年までそう信じていた。
幕末長州に不可欠の人物、吉田松陰、桂小五郎、大村益次郎 の不思議なつながり