大村益次郎

和暦年  (西暦)
大村益次郎年譜 / 主な出来事
文政 7年(1824年)
周防国の鋳銭司(すぜんじ)村(現在の山口市鋳銭司)で村医者の長男として生まれる。
天保13年(1842年)
防府(三田尻)でシーボルトの弟子、梅田幽斎に医学・蘭学を学ぶ。
天保14年(1843年)



豊後国日田の広瀬淡窓(ひろせたんそう:儒学者・漢詩人)の咸宜園(かんぎえん)に入塾。
※咸宜とは「みなよろし」の意味で、身分を問わず入塾が可能であった。四書五経・数学・天文学・医学など多岐にわたる学問の講義が行われた。およそ90年間の塾生は約4800人といわれ、当時日本最大級の私塾であった。
弘化 3年(1846年)
大坂に出て緒方洪庵の適塾で学び塾頭まで進む。この頃長崎にも遊学。
嘉永 3年(1850年)

帰郷し四辻で開業、村医となる。村田良庵と名乗る。
愛想無く物言わぬため、村医者としての評判は悪かった。この頃結婚している。
嘉永 6年(1853年)





宇和島藩から招請され夫婦で宇和島に移る。この間、長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行い、提灯屋の紙を張り替えるだけの職人である嘉蔵(かぞう)= 前原巧山(まえばら こうざん)とともに、国内初の蒸気機関の造船に挑戦。
※『伊達の黒船』(司馬遼太郎氏著 『酔って候』 に収録)
長崎では二宮敬作よりシーボルトの娘で医学修行中の楠本イネを紹介される。この頃、村田蔵六と名乗る。
安政 3年(1856年)

宇和島藩主伊達宗城(だて むねなり)の参勤にしたがって上京した益次郎は、麹町に「鳩居堂」を開塾。蘭学・兵学・医学を教える。
安政 4年(1857年)
幕府の講武所教授となる。
万延 元年(1860年)
江戸で故郷の長州藩士となる。
文久 3年(1863年)

萩に帰国。博習堂の洋学教授となる。この頃、山口の普門寺塾でも兵学を教えた。
※博習堂は安政3年(1856年)洋学教育を目的に、明倫館より分離された。
慶応 元年(1865年)

大村益次郎と改名、藩政改革における軍事体制の整備を担当。
※高杉晋作がつけたあだ名「火吹き達磨」と呼ばれる。
慶応 2年(1866年)
幕長戦争(第二次長州征伐)において石州口方面の指揮を担当、浜田城を陥落させる。
明治 元年(1868年)
上野戦争において彰義隊を破る。
明治 2年(1869年)



箱館の五稜郭を制圧し戊辰戦争が終結。
兵部大輔に就任。
同年9月4日、京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負う、大坂鈴木町の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、敗血症のため容態が悪化、11月5日死去。

 


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