維新の騒乱は井伊直弼の大老就任に始まったともいえます。紀州慶福(よしとみ)を将軍世子に決め、勅許なくして欧米との修好通商条約の締結をするなどし、それに反発する水戸の斉昭や福井の慶永らを蟄居させ、川路聖謨らの有能な幕吏らを左遷、梅田雲浜・橋本左内・吉田松陰らを酷刑に処し、史上類をみない大獄である安政の大獄に発展させます。大獄の発端は、安政5年(1858)8月、井伊大老に対する明らかな不信任の意がある密勅が水戸藩に下ったことにありました。井伊大老は密勅を下賜させるためにはたらいた反勢力分子が許せず、検挙して厳しく処断し、不逞の輩が出ないよう固い決意で臨んだのです。
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Last Updated: 6 March 2010
桜田門外の変 安政7年(1860)3月3日 17人の水戸藩浪士と1人の薩摩藩浪士が大老井伊直弼を襲撃し暗殺した。以下、吉村昭氏著
『桜田門外ノ変』より引用しました。
霏々(ひひ)と舞う雪の中を近づいてきた井伊大老の行列。鋭くとどろいた銃声。それにつづく刀と刀のぶつかり合う響き。その乱闘は、剣術の稽古とは異質のもので、双方がほとんど体を密着させ、刀の根元で激しく押し合い、たたきつけることに終始していた。その間、刃を相手の頭や顔にふれさせようと必死になってつとめ、そのため頭から血が流れ、耳や指が斬り落とされた。
顔は一人の例外なく蒼白で、荒い息をし、立っているのもやっとで、しばしば膝を突いた。彦根藩士は、武芸練達の者が供回りにえらばれていたというが、駕籠脇にとどまっていた者一人をのぞいて、他は剣術とは程遠い動きをしていた。多勢であったのに、同志の斬り込みに圧されつづけ、かたわらの松平大隅守の屋敷の塀に背をはりつけてふるえていた者もいれば、恐怖の色を顔にうかべて屋敷の門内に逃げこんだ者もいる。
有村次左衛門の刀の先に突き立てられた井伊大老の首。それをかざして何事か叫びつづけていた有村の顔は血みどろで、歯も赤く染まっていた。
井伊大老が暗殺されたことによって幕府の支配力は弱まり、それにつぐ坂下門外の変で老中安藤信睦(信正)が失脚し、政治形態は修復不能なほどの亀裂が生じた。水戸藩で勃興した尊王攘夷の政治思想も、桜田門外の変を境にいちじるしい変化が起こった。水戸藩の外圧に対する危機意識からうまれた攘夷論は、そのまま薩摩、長州などの外様雄藩に根をおろした。そして、日本に権益を得た外国勢力に果敢な武力抵抗をこころみ、それが薩英戦争、下関戦争となった。
その結果、外国の軍事力が容易に対抗できぬ強大なものであることが認識され、攘夷論は現実と遠く遊離しているのを知った。
幕府は、井伊大老をのぞいて小藩の藩主によって構成されていたが、力の乏しいかれらには、激しく揺れ動く内外情勢に決断をもって対処する姿勢はみられなかった。かれらは、朝廷との融和によって幕府の存立をはかったが、それは一層の混乱をまねき、幕府の政治力は急激に低下した。
外国との武力対決を断念した薩摩、長州らの雄藩は、幕府を倒すことが現状を打開する唯一の道と確信し、それに総力をあげた。水戸学の尊王攘夷論は、朝廷を尊崇することによって人心の統一をはかり幕府の政治力を強化して外圧に対抗することを目的にしたが、一変して、尊王倒幕論となったのである。
このような急激な、そして著しい変化は、桜田門外の変をきっかけに加速したのである。
坂下門外の変 文久2年(1862)1月15日 6人の水戸藩浪士が老中安藤信睦(のぶゆき)(信正)を襲撃し負傷させた。
以下、吉村昭氏著
『桜田門外ノ変』より引用しました。
平山は安藤を刺したが、桜田事変以来、大名の警護はいちじるしく強化されていたので、平山以下6名はすべて供回りの者たちによって斬殺された。安藤の傷は軽微であった。
以下、吉村昭氏著『桜田門外ノ変』より引用しました。
その後、幕府は、反幕姿勢を露骨にしめす長州藩に征討の軍を起こして失敗し、さらに、薩摩藩との対立も決定的となった。
家茂の死後、将軍職についた慶喜は、幕府が政権を維持することはむずかしいと感じ、大政奉還を上表し、勅許を得た。しかし、薩長土肥を中心とした諸藩は、幕府を壊滅せるため大規模な武力行使に踏み切り、その大兵力は幕府軍を圧倒し、東進して江戸を占領、東北から北海道も鎮圧した。
その間、水戸藩では、尊王攘夷をかたくなに信奉する藩士たちが集団行動に出て、一方、藩内での抗争も激しく、多くの有為な人材が死んだ。
明治政府が樹立されたのは、桜田門外の変が起きてから8年後のことであった。