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Last Updated: 30 September 2006

江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地  ※現地案内板より

田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海まで遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地

西郷南洲 勝海舟 会見之地

東郷記念公園

東郷平八郎邸宅跡。薩摩出身、弘化4(1847)年~昭和9(1934)年。年少で薩英戦争に参加し、戊辰戦争では軍艦「春日」に乗ります。 維新後、7年間の英国留学。日清戦争では浪速艦長として出征します。

日露戦争では、海軍大臣山本権兵衛の推挙(東郷は運がいいとの理由)により連合艦隊司令長官に任命、加藤友三郎・秋山真之などをスタッフとして、ロシア海軍「バルチック艦隊」を壊滅させます。司馬遼太郎著『坂の上の雲』に詳しく書かれています。長編ですが素晴らしい作品です。是非皆さんお読みになってください。

尚、『明治という国のかたち』にも、関連した内容を載せておりますので、こちらも是非ご覧ください。

東郷記念公園

東郷記念公園

品川弥二郎の銅像

品川弥二郎は、長州の出身で松下村塾に学んでいます。『世に棲む日日』では、久坂玄瑞に連れられ、初めて高杉晋作が松下村塾を訪ねた時、品川弥二郎についてが次のような記載があります。
(晋作):「なぜその子は塾に入ったのだ」
「こういうことをきいている」と、久坂はいきさつをのべた。その少年が松陰のもとにやってきていうには、「自分の家は検断人の家で、人を殺すしごとをしております。でありますから自分のとりえは、蓮如上人の白骨の御文章が暗誦できます」といった。白骨の御文章とは、「朝の紅顔、夕に白骨になる」という文句で有名な文章で、門徒(浄土真宗)の葬式のときによくつかわれる。罪人の冥福をいのるということで、品川家の子はそれを幼少のときからおしえられているのであろう。少年は、「でありますから、自分は人を助ける人間になりたいのです」
と松陰にいった。それが入門志願の理由であった。(中略)
(松陰):自分は人の師になりえない人間であるが、兄弟になったつもりで一緒に学ぼう。それでよければ来てもよい。

その後、英国公使館焼き討ちに参加したり、薩長同盟に尽力し、農商務大臣・内務大臣を歴任しましたが、強力な選挙干渉を行い死者まで出したとして非難され辞職。明治三十三年に56歳で亡くなってます。

品川弥二郎の銅像

品川弥二郎の銅像
 

上野恩賜(おんし)公園

上野恩賜公園はもと東叡山寛永寺の境内でした。明治維新の戦乱で堂塔の殆どが焼失し、病院建設予定地となりましたが、蘭医ボードウィンがこの景観の素晴らしさは公園として残すべきと明治政府に進言したため、明治六年に日本の公園第1号として一般公開に至ったと言われています。

西郷隆盛の像

西郷隆盛の像

西郷隆盛の像

この銅像の西郷隆盛の顔、本当の顔ではないことご存知でしたか。西郷は生きている間に写真や肖像画など残しておらず、現在西郷の顔として有名な肖像画はイタリア人画家キヨソネが描いたものです。キヨソネは実際に西郷に会っていませんので、弟の西郷從道と従弟の大山厳をモデルにして描いたそうです。上半分が西郷從道、下半分が大山厳の顔という合成肖像画なんですね。銅像はこのキヨソネの肖像画を参考にしているようで、銅像の除幕式に参加した西郷の奥さんは、『うちのひとはこんな顔じゃなかった』と言ったそうです。

田安門(江戸城)

初代:徳川(田安)宗武(むねたけ)は徳川吉宗の二男、徳川御三卿(一橋家・清水家・田安家)で、御三家に将軍継承者がない場合にはこの御三卿から選ばれるという立派な家格。建立以前のこの付近は田安台と言われた田園地帯でした。桝形門でその創立年代は明らかではありませんが、慶長12年(1607)には既に存在していて、現在の門は寛永13年(1636)に再建され、現存する門の中では最も古いものです。この門を抜け少し歩けば日本武道館です。

田安門

田安門