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Last Updated: 3 September 2006

萩往還公園、松陰記念館、伊藤博文生誕地、萩城、前原一誠旧宅、吉田稔麿の墓、品川弥二郎誕生地、周布政之助旧宅跡、入江九一誕生の地、山県有朋誕生地などをご紹介します。

この町は、南郊の山上から見下ろした景色がいい。
武家屋敷や寺々の屋根が起伏し、銭湯のそれを除いて一本の煙突も見あたらぬことに気づく。
北郊の突端に指月城の森があざやかにみえる。
そのむこうに指月山が盛り上がり、山裏は断崖になって海に落ち、多島海へひろがってゆく。
日本海の海灯りが町に青の透明色をあわく掃いているようであり、鯖島、羽島、尾島、相島といった島々がぶきみなほど美しい。
ただでさえ水の碧い日本海がこれほど美しい風景をつくっているところも他にないだろう。

司馬遼太郎:『 歴史を紀行する』より

萩往還公園 萩市大字椿字鹿背ヶ坂1258

萩往還は、城下町萩と瀬戸内の港町、三田尻(防府)を結んだ街道で、殿様が参勤交代などで通ったため、「御成道」とも呼ばれ、山陰と山陽とを結ぶ連絡道として萩藩内の主要な交通路の一つでした。道沿いに道標や一里塚などが設けられ、刑場や銀山もあったことから現在「歴史の道」として保存整備されています。

萩往還公園
写真は左から、高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞
萩往還公園

写真は左から、山県有朋、木戸孝允、伊藤博文

萩往還公園

写真は左から、品川弥二郎、山田顕義

松陰記念館内

松陰記念館は吉田松陰生誕160年記念事業の一環として建設されたもので、「新しい国づくりに奔走する人材を養成した教育者松陰」像に焦点をあてた展示となっています。

松陰記念館

松陰記念館

松陰記念館

松陰記念館

伊藤博文生誕地

伊藤博文

伊藤博文(1841~1909) 17歳の時、来原良蔵の紹介で松下村塾に入門。松陰は伊藤を周旋屋(世話好き)と評しました。維新後は明治政府の中心的役割を果たし、初代内閣総理大臣となりました。その後「統監府」初代統監にもなりますが、1909年10月26日ハルピン駅で安重根(アン・ジュングン・1879~1910)により射殺されます。安重根は旅順地方裁判所で死刑判決を受け処刑されますが、祖国の独立と東洋和平のための行動だと主張した安重根は、韓国では民族運動の英雄とされています。

伊藤博文生家

伊藤博文生家

前原一誠旧宅 ※現地案内板より

前原一誠は、1834(天保5)年に萩藩士佐世彦七の長男として生まれた。
吉田松陰の松下村塾に学び、第二次長州征伐、戊辰戦争で活躍した。明治維新後は、参議・兵部大輔になったが、意見の相違から、1870(明治3)年に政府を去り、萩に帰郷してこの屋敷に住んだ。1876(明治9)年、新政府の政策と意見を異にする同志に推されて兵を起こしたが、事破れて刑死した。没後、1916(大正5)年、従四位を贈られた。

前原一誠旧宅

前原一誠旧宅

前原一誠旧宅

前原一誠旧宅

吉田稔麿(よしだとしまろ)の墓 ※現地案内板より

松下村塾に学び識見、才智を備えた俊才で高杉・久坂・入江と併せて村塾の四天王と称された。元治元年(1864)京都池田屋に新撰組に斬られ重傷、後自刃。享年二十四。

以下、司馬遼太郎氏の街道をゆくシリーズ「 甲州街道、長州路」より引用しました。
幕末の長州の若者のなかで、吉田稔麿というのが好きである。例の新選組の池田屋事変のとき、沖田総司とたたかって死んだ。このため、新選組をとりあつかった諸家の小説のなかに、たいてい吉田稔麿という名前が池田屋の箇所に出てくる。不幸なことに斬られる存在として出てくる。ときには被害者の名前が列挙されているリストのなかだけで出てくる。要するに吉田稔麿は、今後もなお池田屋事変を書くひとが出てきて、そのくだりに及ぶごとに斬られてゆくにちがいなく、斬られるだけの存在としてのみ人々の記憶の中にくりかえし記憶されているわけで、人間に霊があるとすれば、吉田稔麿というのはずいぶんつらい霊である。

吉田稔麿の墓

吉田稔麿の墓

品川弥二郎誕生地 ※現地案内板より

明治の政治家、子爵。萩藩足軽の子としてこの地に誕生、吉田松陰の松下村塾に学び尊攘討幕運動に挺身す。老中間部詮勝要撃策に加盟、イギリス公使館焼打に参加、蛤御門の戦、四境戦争に従う。維新後ドイツ公使官中顧間官、内務大臣、枢密顧問官等を歴在す。産業組合設立に尽くし、晩年は松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を建設して京都大学に寄贈した。明治33年(1900)没。58。

品川弥二郎誕生地

品川弥二郎誕生地

周布政之助旧宅跡 ※現地案内板より

周布政之助は、1823(文政6)年に武士の子として生まれた。萩藩の財政改革をすすめ、藩の建て直しを行った。一方で高杉晋作ら尊王攘夷派を支援した。1864(元治元)年、第一次長州征伐の中、藩の権力争いに敗れ、42歳で自刃した。この場所には、1859(安政6)年から数年住んだといわれている。

周布政之助旧宅跡

周布政之助旧宅跡

入江九一・野村靖兄弟誕生の地 ※現地案内板より

入江九一・野村靖は、野村家の長男・次男としてこの地に生まれた。ともに松下村塾に入門し、吉田松陰の教えを受けた。兄 九一は、入江家の養子になり、1864(元治元)年、禁門の変に参加し27歳の若さで戦死した。弟 靖は、下関攘夷戦などに参加し、明治維新後は、神奈川県令(現在の県知事)、内務、逓信大臣(現在の郵政大臣)などを務めた。1909(明治42)年、68歳で死去した。

入江九一・野村靖兄弟誕生の地

入江九一・野村靖兄弟誕生の地

山県有朋誕生地

山県有朋誕生地

※現地案内板より

明治・大正期の軍人・政治家・公爵。
川島で出生。松下村塾に学び、奇兵隊の軍監となり、高杉晋作挙兵による内訌戦等に活躍、戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。明治以後、陸軍卿・参議・陸軍大将・元師へと進み、日本陸軍の中心的存在として長州陸軍閥を形成、政治家としては内務大臣となり、のち、二次にわたり内閣を組織し、元老となる。大正11年(1922)没。享年85。

山県有朋公像

山県有朋公像

山県有朋公像

山県有朋公像

司馬遼太郎氏は『 歴史を紀行する』の中で長州、萩について以下のように記述されています。

歴史はかならずしもロマンではないが、しかしときには遺恨がそれをうごかす。長州の毛利家がそれである。
この大名は戦国期までは瀬戸内海岸きっての交通の要衝というべき広島を覇府とし、その領地は山陽山陰十カ国にまたがる。
大名--というよりもはや覇王にちかい存在だったが、関ヶ原の敗北で一朝にして没落した。徳川幕府によってわずか防長二州(周防・長門)にとじこめられ、城をおく場所までくちばしを入れられ、「城も山陽道はこのましくない」といわれ、日本海側に追いやられた。その後の城下が萩である。

阿武川の三角州にあり、あしやよしのはえた低湿地にすぎなかった。
ここに土を盛り上げて指月城を築き、田をうずめて市街をつくった。毛利家は持ち高を四分の一に減らされたために、家臣の人員を大量に整理しなければならなかったが、多くの者は無禄でも殿様についてゆくと泣き叫び、ついに収拾がつかなくなり、人がいいばかりのこの当時の当主毛利輝元は幕府に泣訴し、「とてもこの石高ではやってゆけませんから、城地もろともほうりだしたい」
と、いったほどであった。表日本の広島から裏日本の萩へつづく街道は、家財道具を運ぶ人の群れで混雑し、絶望と、徳川家への怨嗟の声でみちた。どの家臣も、食えぬほどにまで家禄を減らされた。上級武士でも十石や十五石という者がふんだんに出来、それらは士籍をもちつつ山野を耕して自給した。農民になってしまった者も数知れずいる。はるかな後世、高杉晋作が倒幕戦のために藩に過激政権をつくろうとしクーデター戦をおこしたとき、吉敷郡から農民千二百人が現れて高杉の陣営に投じた。かれらは徳川以前には毛利家家臣であったと称する者どもであり、徳川によって一家は窮地に陥った、という家系をもつ者たちであった。