幕末に活躍した日本初の職業写真家。上野彦馬所縁の地、長崎を歴史探訪します。
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Last Updated: 22 January 2010
上野彦馬は、日本最初の職業写真家です。長崎の銀屋町に生まれました。上野家は、先祖代々肖像画を描く画家の家系でした。
こんな話があります。某日、彦馬は手製の写真機を完成させると、興福寺の山門を撮影することに成功しました。次は生きている人の姿を撮影してみたいと思いますが、当時は『写真と撮ると魂を抜かれる』などと言われ、皆気味悪がって被写体になってはくれませんでした。そのため、彦馬は、医学伝習所頭取の松本良順に依頼します。西洋医学に理解のある良順ならば、きっと引き受けてくれるであろうとの思いからでしたが、予想通り良順は引き受けてくれました。彦馬は良順が宿舎にしていた本蓮寺に到着すると、良順の顔一杯に白粉を塗り始めました。当時の写真技術はまだまだ未熟で、被写体自体が明るくなければ、綺麗に撮影が出来なかったためです。また感光させるのにも相当な時間がかかりましたので、良順は顔一杯に白粉を塗りたくられ、数分以上もじっと立ち続けていたと思われます。滑稽な光景ですが彦馬も良順も真剣でした。この辺りの話は司馬遼太郎氏の著書:『胡蝶の夢』に詳しく書かれています。
その後彦馬は、市内に『上野撮影局』という写真館を開設し、ここで坂本龍馬や高杉晋作、桂小五郎らを撮影しました。
わが国写真の開祖。広瀬淡窓に漢学を、名村八右衛門に蘭学を、オランダ人ポンペに化学を学ぶ。蘭書中の写真の記述に興味を持ち、さらにフランス人ロッシュに写真術を学ぶ。文久2年(1862)中島川上流に日本初プロカメラマンとして撮影局を開室。以来、坂本龍馬、高杉晋作ほか志士顕官の多くを撮影。明治10年西南戦争にわが国初の従軍カメラマンとして参加。数百枚の写真を撮っている。
坂本龍馬(1835~1867) ※現地案内板より
土佐郷士の家に生まれる。江戸に出て剣術修行の後に土佐に戻り、土佐勤王党に加盟。のちに脱藩して勝海舟に学ぶなど見聞を広め、維新回天の事業に取り組んだ。中でも薩長同盟の締結に大きな役割を果たした。
慶応元年(1865)、長崎に日本初の商社亀山社中を設立。慶応3年(1867)には土佐海援隊として、商業活動のかたわら大政奉還実現に力を注いだ。
上野彦馬宅跡 ※現地案内板より
上野彦馬(1837~1904)の生まれた上野家は絵師の家柄で、特に肖像画を得意とした。彦馬の父、俊之丞(若龍・1790~1851)は、この地に別荘を構え、薬品や硝石、中島更紗などを製作していた。また、写真にも興味を持ち、ダゲレオタイプで島津直彬を撮影した6月1日は、現在、写真記念日となっている。
彦馬も写真について研究、ついにその撮影に成功した。文久2年(1862)、この地に上野撮影局を開設、以後、わが国を代表する写真家として名声を博し、わが国写真の開祖と称された。
上野撮影局と中島川 ※現地案内板より
明治初期頃の撮影で、写真中央の白い武家塀の屋敷が上野彦馬邸です。上野彦馬は、文久2年(1862)、日本で最初期の商業写真家として撮影局を開業しました。当時の内外の要人や明治7年(1874)の金星観測の様子、明治10年(1877)の西南の役を撮影し、貴重な写真を後世に残すとともに多くの弟子を養成し、わが国写真業界の基礎を築きました。右手の樹木の場所は水神神社で、江戸時代に敷設された倉田水樋(くらたすいひ)の水源があり、約218年間上水道として使用されました。左手の屋敷は、東京の湯島やさがの多久(たく)とともに日本三大聖堂の一つと言われた長崎聖堂です。
上野彦馬の墓
坂本龍馬銅像が建つ風頭公園に隣接した風頭山にあります。明治37年(1904)、長崎で死去。享年67。
上野彦馬(1838~1904) ※現地案内板より