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薩長土肥と言う言葉があります。薩長土は薩摩・長州・土佐であることはお馴染みですが、肥とは肥前佐賀藩のことです。倒幕の時期、肥前佐賀藩は二重鎖国をひいており志士は居ても藩外には出ず、これといって活躍した人物は居ませんでした。しかし佐賀藩は国内に他とない厳しい教育制度を持ち、優秀な人材を抱えていたのです。彼等は倒幕後、明治政府の整備において活躍しました。司馬遼太郎氏の『歳月』を読めば江藤新平ら明治維新に活躍した肥前の人物ことがよく分かります。

鍋島 直正
なべしま なおまさ
(1814年~1871年)
佐賀藩主。幕末においていち早く西洋文化を取り入れ、反射炉を建設。カノン砲、アームストロング砲(上野戦争でアームストロング砲の威力は実証された)、蒸気機関車、蒸気船を製造させる。
大隈 重信
おおくま しげのぶ
(1838年~1922年)
早稲田大学創立者。2回の内閣総理大臣、大蔵卿、外務大臣など。キリスト教信者の取り扱い問題を巡って英国公使パークスと激しい論争を繰り広げ、その結果新政府内で認められ、パークスからの知遇を受けた。
副島 種臣
そえじま たねおみ
(1828年~1905年)
明治四年、外務卿。その次の年に人買い船のマリア・ルーズ号事件がおこり、副島は「同じ人間として知らないふりはできない」と言ってこの事件を見事に解決。「正義人道の人、副島外務卿」と、種臣の名前は世界中に知れわたる。兄に枝吉神陽をもつ。
江藤 新平
えとう しんぺい
(1834年~1874年)
初代司法卿。日本初の法制を公布施行し、文明開化の基礎作りに活躍。明治7年征韓論の首領として佐賀の役を起すが、敗れて梟首さる。
佐野 常民
さの つねたみ
(1822年~1902年)
前半生は科学技術の振興に努力し、島津斉彬に佐賀でつくった電信機を献上したこともあった。緒方洪庵の適塾に学び、西南戦争の際、敵味方なく救護する。後に博愛社(のちの日本赤十字社)を創設。
島 義勇
しま よしたけ
(1822年~1874年)
蝦夷・樺太を探索し、北海道開拓に貢献し、北海道開拓判事として高く評価されている。江藤とともに佐賀の乱を起こすが敗れて処刑される。
大木 喬任
おおき たかとう
(1832年~1899年)
初代文部卿。明治維新の際、東京遷都を主張、東京府知事に就任。民部、司法卿も務める。


佐賀の乱

明治6年、征韓論をめぐり大久保利通らに敗れた江藤新平は、西郷らとともに参議を辞します。(この時、板垣退助・副島種臣・後藤象二郎も連なり辞職)この頃新政府に不満をもつ旧士族らは爆発寸前で、特に肥前佐賀は不穏な空気に包まれていました。そんな中、江藤は板垣、副島、後藤らの反対を押し切り東京から佐賀へ下野します。江藤がまだ佐賀に入る前の2月1日、過激派の一部が政商の小野組の支店を襲撃すると、大久保は待ってましたとばかり江藤を首領と決めつけ大規模な制圧軍を組織します。江藤は大久保の罠にかかったようなものでした。
その後、佐賀入りした江藤は首領として担ぎ上げられます。戦闘の末反乱軍は近代兵器を装備した政府軍に鎮圧され、江藤ともう一人の指導者とされた島義勇は梟首となりました。

佐賀の乱弾痕

佐賀城 鯱(しゃち)の門 佐賀の乱銃弾の痕

江藤新平の墓

佐賀市の本行寺(佐賀市西田代1-4-6)にある江藤新平の墓

江藤新平銅像

神野公園内にある江藤新平銅像

江藤新平は二重鎖国をひく佐賀藩にあって、幕末に脱藩した数少ない人物です。脱藩は斬首に値する罪ですが、幸運にも名君鍋島閑叟直正に許されます。倒幕後は明治政府で江戸軍監、江戸府判事、江戸鎮台府判事などを歴任、明治五年に司法卿となり、近代国家に相応しい司法制度の整備に尽力しました。明治後長州閥の私利を貪る体質が許せず、中でも巨魁の大蔵大輔井上馨の不正を追求し辞職にまで追い込みました。その後参議にもなり、西郷隆盛らとともに征韓論を唱えますが反征韓論派の岩倉具視・大久保利通らに敗れ、その後下野します。もともと大久保とは気が合わず(両者とも聡明な頭脳の持ち主であり、互いにとって代われる実力の持ち主であった)対立しておりましたので、佐賀の乱は大久保にとって江藤を葬る絶好機となりました。

その後相次ぐ反乱

明治七年(1874. 2月)佐賀の乱
明治九年(1876.10月)熊本・神風連の乱(太田黒伴雄ら二百名程)
明治九年(1876.10月)福岡・秋月の乱(宮崎車之助ら四百名程)
明治九年(1876.10月)山口・萩の乱(前原一誠ら五百名程)

明治四年の廃藩置県などにより、明治政府は徴兵制の導入を決定し、それまでの各藩による分割統治を改め、強力な中央集権国家を作ることにしました。旧武士たちは士族と呼ばれ平民より上の階級ということにはなりますが、実際にはなんら特権があるわけでもなく、藩からもらっていた石(給料)も貰えなくなり、武士の魂としていた刀も召し上げられてしまい(廃刀令:1876年)、これにより士族の生活は非常に困窮することになります。1876年に連続して起きた神風連の乱、秋月の乱、萩の乱はこの廃刀令に対する武士たちの怒りが爆発したものといわれています。

これら小規模な反乱は、制圧されていくことで、弱体であった明治政府を徐々に強くして行く結果となります。
そして明治十年(1877. 2月)ついに薩摩が噴火し、西南の役が勃発するのです。