幕末のコーディネーター 坂本龍馬

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Last Updated: 3 September 2006

坂本龍馬、土佐藩を脱藩した志高きこの若者が激動の時代をどう生きたのか。
風頭公園には坂本龍馬の銅像が建立されています。この公園は長崎の港を見下ろす風頭山にあり、近くには龍馬が日本で最初につくった貿易商社亀山社中があり、幕末歴史探訪路の一部になっています。

坂本龍馬の銅像 風頭公園【長崎市】

坂本龍馬の銅像 風頭公園
坂本龍馬の銅像 風頭公園

坂本龍馬の像 【長崎市】

司馬遼太郎氏の 『竜馬がゆく』より以下引用しました。

船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、『長崎はわしの希望じゃ』と陸奥陽之助にいった。『やがては日本回天の足場になる』ともいった。

現地案内板より

坂本龍馬は天保6年(1835)に生まれ、12、3歳の頃まで自然児の時代にあって、鏡川で水泳をしたり、坂本山のある柴巻でうさぎ追いなどに夢中になっていました。そして、築屋敷にあった日根野道場の小栗流や江戸の北辰一刀流を修行して剣士となり、父親の厳しさと乙女姉さんの愛情に包まれて、たくましく、やさしさを一身にそなえた青年龍馬に成長しました。それに家学ともいうべき和歌の道に興味を示し、河田小龍や徳弘董斎から洋学の手ほどきを受け、その折、中浜万次郎の漂流記を読み、大きな影響を受けています。

坂本龍馬誕生の地
坂本龍馬誕生の地 【高知市】

竜馬は、十二になっても寝小便をするくせがなおらず、近所のこどもたちから「坂本の寝小便ったれ」とからかわれた。からかわれても竜馬は気が弱くて言いかえしもできず、すぐ泣いた。ときどき近所のこどもたちにまじって、すぐ近所の築屋敷(町名)の河原などであそぶことはあったが、たいていは泣かされて帰ってくる。それも屋敷までのあいだ二丁も三丁もべそべそと長泣きをしながらもどってくるために、城下ではたれでも、「坂本の泣き虫」といえば「ああ、本町筋の洟垂れのことか」といった。竜馬はどうしたことか、十二、三になってもはなじるが垂れっぱなしだった。十二のとき、ひとなみに父は学塾に入れた。城下では、藩の上士の子が上町の島崎七内塾にかよい、軽格の子弟は、おもに車瀬の池次作、大繕町の楠山庄助塾にかよったが、龍馬が入塾したのは、この楠山塾である。
ところが、入塾するとほとんど毎日泣いて帰るし、文字を教えられても、竜馬のあたまでは容易におぼえられない様子なのである。ついに、ある雨の夜、師匠の楠山庄助がたずねてきて、
「あの子は、拙者には教えかねます。お手もとでお教えされたほうが、よろしかろう」
見はなされたのである。もともと寺子屋の師匠といえばなかば世すぎで教えているのだが、その師匠からも見はなされたとなると、もはや家門の恥辱といってよかった。このときだけは父の八平も長嘆して、
「えらい子ができたものじゃ。この子は、ついに坂本家の廃れ者になるか」
兄の権平もにがい顔をしていたが、乙女だけはくすくすと笑い、
「いいえ、竜馬は左様な廃れ者にはなりませぬ。ひょっとすると、土佐はおろか、日本に名をのこす者になるかもしれませぬ」

以上、 『竜馬がゆく』より引用しました。

現地案内板より

海の男としてたくましく生きた坂本龍馬先生の永遠の姿をわれわれはこの銅像に見る。海援隊を創設し、薩長同盟を成立させて土佐藩を倒幕派陣営に誘い、将軍の政権奉還による王政復古を見るまで33年の生涯は凶刀のために血潮に染められたが、先生の起案した船中八策は新日本建設の柱として残された。その立憲会議制の提唱は明治の自由民権運動として展開され、日本近代化への道を大きく開いたのである。先生の夢は後代の青年の魂をゆさぶり続け、大正の末年本県青年たちの提唱によって、銅像建設のことも立案推進された。この桂浜の巌頭に立てられた先生銅像の除幕式は昭和3年5月27日を期して挙行された。建設資金は当時の青年たちの零細な拠出によって造成されたが、この計画は先生の往年の同志、田中光顕伯の賛助を受け当時25歳の青年秩父宮から寄付金が下賜されたのである。このことが一層県下青年を感奮させたと伝えられる。総工費2万5千円、像長5.3メートル、台座8メートル、製作者は郷土出身の本山白雲である。除幕式の当時は軍艦「浜風」が銅像の下に投錨参列して祝意を表した。青年の力によって建設されたこの銅像は青年のシンボルとして雨の日も風の日も力強く若者たちの魂に話しかけるであろう。

坂本龍馬像
坂本龍馬像 【桂浜】

建設以来55年を経、損傷の著しい銅像台座の修復作業を行うべく立ち上がった現代の高知県青年は昭和58年3月20日、桂浜で盛大に竣工式を祝った。修復資金は一口100円の寄付を街頭募金を通じて県内外の龍馬ファンから募り、目標額を上まわる573万4195円の寄付金を集めた。明治の青年たちが建設した、その意思を受けついで昭和の青年たちの手で修復しよみがえった坂本龍馬先生の銅像。「いつまでも伝えたい、龍馬の心を生き方を」の合言葉とともに次代の青年たちにこの意志が受けつがれんことを期待する。
さらに、建設以来桂浜で風雨に耐えること70年。古希を迎えたのを機に、「日本も龍馬も倒しとうない」と、有志たちが龍馬像修復実行委員会を結成。建設時と同様、龍馬を愛する人々から大きな浄財を得た。(総額5941万4590円)。そして平成11年3月28日、修復・強化された龍馬像は再び太平洋を望んだ。
「ありがとう。つぎは日本の洗濯ぜよ」と、その姿は語っているかのようである。

桂浜 【高知市】

月の名所としても有名な、太平洋を望む弓形の砂浜。北東の端が上竜頭岬、南西の端が下竜頭岬。下竜頭岬には竜王宮がある。

坂本龍馬 桂浜 竜王宮

桂浜

坂本龍馬 桂浜 太平洋の荒波

桂浜

坂本龍馬 桂浜

桂浜

坂本龍馬 桂浜

桂浜


和暦年(西暦)坂本龍馬年譜 / 主な出来事
天保6年(1835) 土佐藩の郷士として生まれる。
嘉永6年(1853) 藩から江戸での剣術修行を認められ、北辰一刀流千葉道場に入門。千葉周作の北辰一刀流道場は「玄武館」神田お玉ヶ池にあり、 龍馬が通ったのは千葉周作の弟(貞吉)が開いていた桶町の小千葉道場。この年ペリー来航。
文久元年(1861) 武市半平太が結成した土佐勤王党に参加。
文久2年(1862) 土佐勤王党と決別し土佐を脱藩する。江戸に上り、勝海舟に弟子入り。
文久3年(1863) 神戸海軍操練所の設立に奔走、10月には操練所の塾頭になる。
元治元年(1864) 再度脱藩。神戸海軍操練所、幕府により閉鎖される。
慶応元年(1865) 長崎に亀山社中を設立。武市半平太切腹。
慶応2年(1866) 薩長同盟を斡旋。寺田屋で襲撃され、その後妻のお龍と霧島の塩浸温泉で日本で最初の新婚旅行。ユニオン号を率いて、幕長戦争に参加。
慶応3年(1867) 紀州藩船「明光丸」と海援隊の「いろは丸(伊呂波丸)」衝突沈没事件。亀山社中を海援隊と改称。11月15日、京都の近江屋にて暗殺される。