(*無断での写真の転用は禁止いたします)
Last Updated: 4 October 2009
坂本龍馬は嘉永6年(1853)、剣術修行のため江戸に出て、北辰一刀流千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(小千葉道場)に入門しました。安政元年(1854)には土佐に帰国し、河田小龍に師事しています。安政3年(1856)に再び桶町千葉道場に遊学後、安政5年(1858)には北辰一刀流の免許皆伝となります。文久元年(1861)には武市瑞山の土佐勤王党に加盟し長州へ行き、翌年の文久2年(1862)に土佐に帰国しますが、間もなく脱藩しました。
維新の門群像 建立趣旨 ※現地案内板より
近代日本の魁となった土佐勤王党の志士の偉業は、筆舌に尽くし難く、誠に偉大なものであります。
維新の里といわれる檮原からも、吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉の六志士を輩出し、又、維新回転の立役者である坂本龍馬も風雲急を告げる中、盟友澤村惣之丞と共に当地の那須邸に投宿し、酒を酌み交わしながら時局を談じた後、那須父子の案内で韮ヶ峠を経て土佐を脱藩し、維新回転の奔流に身を投じました。
これに前後して、土佐勤王党の数多くの志士たちも、宮野々関門を経て九十九曲峠を越え、激しい時代のうねりの中に次々と散華してゆきました。
写真左4名:吉村虎太郎、前田繁馬、那須信吾、中平龍之介。写真中央 :掛橋和泉。写真右3名:坂本龍馬、澤村惣之丞、那須俊平。
那須信吾
六尺の体格に恵まれ怪力であったため天狗様とあだ名された。梼原村の郷士である那須俊平に見込まれ婿養子となる。吉田東洋暗殺犯の一人であり、暗殺事件後に長州藩へ脱藩。文久3年(1863)、天誅組に加わり軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死した。
維新の門群像 碑文
幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平、信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回転の偉業を夢見て脱藩した。この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之介が国境を越え維新動乱の渦中に身を投じた。また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に8人の志士は壮絶な死を遂げていた。いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた男たちの決意が偲ばれる。
ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の数多くの有志の熱き思いが、この群像を建立した。
平成7年11月11日建立 撰文 梼原町維新の門群像建立委員会
司馬遼太郎氏『竜馬がゆく』より。
脱藩とは、登山のようなものだ。とくにこの土佐のばあいは。
この国の北には、四国山脈の峻険が、東西に走っている。国外に出るのはすべてその山越えになるが、街道には、関所、人の目があって、民家にさえ、とまれない。村役人に通報されるからである。だから、間道を走る。
寝ず、駆けどおしで、伊予境までの山岳渓谷二十余里、山窩のように走らねばならない。自分の健脚だけが頼りなのだ。
「竜馬、まず御嶽の山頂まで登るかい」
と沢村惣之丞はいった。この男は一度脱藩して道に馴れている。
「よかろう」
竜馬は着流しだ。それをうんと尻からげにし、さすがに脚絆にわらじだけは足につけている。
二人は夜にまぎれて、高知城の西北の山に駆けこみ、そのあとはさんたんたるものだった。山腹を這い、藤づるやかずらにつかまって岩壁をつたい、やがて御嶽の頂上にでた。
脱藩の道
土佐勤皇志士脱藩の地 宮野々関門(番所)跡 ※現地案内板より
この番所は、寛永六年(1629)設置され、宝暦年間より明治の初期まで片岡氏が世襲の番所役人を勤め、通行者を検問した。今も片岡氏の居宅で、その構えは旧観をしのばせている。街道は前の川を渡り稜線をつたい県境に至る。土佐勤王の志士脱藩で人に知られるようになり、碑は梼原村が建立した。
宮野々関門(番所)跡
四万十川