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Last Updated: 7 February 2010
寺田屋で幕吏に襲撃された坂本龍馬は、その傷を癒すため、妻おりょうを伴い霧島へ旅行します。
南洲翁は、文政十年(1827)父 吉兵衛、母 政子(椎原氏)の長男として鹿児島市加治屋町で生まれました。幼少を小吉と言い、その他、隆永、隆盛などの名を使いましたが、通称は吉之助で南洲は号です。幼年時代は漢学の素読を受け、また造七館に学んで、太閤記や三国志、伝習録などを愛読、禅学も修めました。翁は、藩の誤解などで二回も大島に流されましたが、天下の形勢は急を告げ、元治元年(1864)以降、明治維新の立役者として「敬天愛人」の思想のもとに大政治家大精神家として日本の世直しのために尽くしました。明治十年(1864)九月二十四日、西南の役で被弾、従者別府晋介の介錯で終焉、南洲翁の死は、敵味方はもちろん一般国民にも深く痛惜されました。
この銅像は、昭和五十一年 彫刻家 故 古賀忠雄氏(元日本芸術院会員)が「現代を見詰める西郷隆盛」のタイトルで塑像者の御子息 彫刻家 古賀晟氏が翁の郷里 鹿児島への建立を切望され、溝辺町商工青年達の呼びかけで町が全面的に協力、県域はもとより、県外海外からの浄財で昭和六十三年五月二十八日建立、同年八月二十八日除幕されました。
像の高さ:10.5メートル 重さ:30トン 胴囲り:5.6メートル
偉人像としては、日本一の銅像です。
犬飼滝 【現地案内板より】
錦江湾に注ぐ二級河川天降川水系中津川にあり、滝の高さ36m、幅21.8mと言われています。かつて和気清麻呂がこの地に配流され、また、明治維新への立役者、坂本龍馬も訪れ、眺めたという由緒ある滝です。
日本最初の新婚旅行 龍馬ハネムーンロード
坂本龍馬・その妻お龍が新婚旅行で歩いた道程 【現地案内板より】
坂本龍馬は、慶応2(1866)年、旧暦1月24日(新暦3月10日)未明午前2時頃、京都伏見の寺田屋で幕士に襲われ手傷をおった。薩摩藩邸にかくまわれ傷の手当をしている時、家老小松帯刀と西郷隆盛から薩摩の霧島での温泉療養を勧められ、旧暦3月4日(新暦4月18日)小松、西郷、吉井ほか数名、そして新妻お龍と供に薩船「三邦丸」で大阪を発ち、旧暦3月10日(新暦4月24日)、鹿児島天保山に到着した。しばらく小松帯刀別邸に留まり、旧暦3月16日(新暦4月30日)、錦江湾の桜島を眺めつつ船で浜之市港へ向かい、霧島をめざして、ここに降り立った。この時、龍馬32歳、お龍27歳であった。龍馬・お龍のこの旅が「日本最初の新婚旅行」と言われている。龍馬は、滝の印象を乙女姉さんへの手紙で、犬飼滝について「滝は50間(約100m)も落ちて、この世の外かと思われるほどめずらしき所なり」と絶賛し、ここで10日ほど泊まり、谷川で魚を釣り、短筒で鳥を撃ち、楽しくすごしたと書いている。
坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念 【現地案内板より】
今からちょうど130年前、慶応11年(1866)日本の歴史の大転換期に坂本龍馬と妻おりょうは、薩摩(鹿児島)に訪れています。京都伏見の寺田屋事件(1866年1月23日未明)で幕士に襲われ九死に一生を得た龍馬は、妻おりょうとともに霧島の山深く入り温泉で傷を治しながらその足で霧島山(高千穂)の峯にある天の逆鉾を見ようと妻おりょうと高千穂 登山をしています。姉乙女への手紙によりますと「天の逆鉾」を見て天狗の面に似ていると二人で微笑んだと記されています。下山途中は一面にみやまきりしまが咲きほころび美しい情景であったそうです。また、その足で霧島神宮をお参りし、大きな 杉の木もあるが御神殿の建物にも奥深いものがあると感じながらここに一泊し、そこから霧島の温泉に戻り4月12日鹿児島へ帰っているようです。坂本龍馬が鹿児島へ訪れた行程は、88日間と示され、現在の新婚旅行とも言われています。このことは龍馬が姉の乙女宛へ送ったと言われる手紙から抜粋し要約したものです。
神聖降臨之詩碑 【現地案内板より】
神聖降臨之詩碑
神聖降臨地 乾坤定位時
煌々至霊気 萬世護皇基
徳富蘇峰
「皇室を中心とする国、日本と徳富蘇峰」
明治、大正、昭和にかけての思想家徳富蘇峰は其の思想の中で根幹をなす「皇室中心主義」について「漸く行き着いた安心立命の処」と言い「此を宣揚して死んだら私の生存したる甲斐もある」と感得しえた思想の境地を語ったと云われています。この詩は昭和27年「卒寿」を迎えた蘇峰の詠詩輝毫で、国体の精華が詠みあげられています。詩碑は、昭和27年8月22日、照国海運社長中川喜次郎兄弟、並びにその厳父より同社の建造船タンカー「霧島丸」の進水を記念して奉納されました。
さざれ石 【現地案内板より】
国歌に詠まれている「さざれ石」
この石は学名を石灰質角礫岩と云う。石灰石が雨水に溶解してその石灰分をふくんだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第に大きくなる。やがてそれが地上に顕れて国歌に詠まれる如く、千代、八千代、年をへてさざれ石巌となりて苔のむすと云う状は、実に目出度い限りである。この石は国歌発祥の地と云われる岐阜県揖斐郡春日村の山中で発見されたもので、その集結の過程状態はこの石を一見してよく察することが出来る。
丸尾の滝
高さ、約20m 霧島温泉のお湯が流れ落ちている滝。
以下、『竜馬がゆく』、より引用しました。
西郷のいう「傷にきく温泉」とは、霧島山の山ふところにかこまれた塩浸(しおひたし)温泉のことで、「薩摩者で傷をした者は、医者どんにはかかり申さん。塩浸に行きもさ」といった。西郷はさらに、塩浸とは、山深い渓流のほとりに湯が湧き出ていて、あたりの景色も桃源郷のようだ、といった。「ぜひ」と、すすめた。西郷がこうも薩摩への湯治旅行をすすめたのは、竜馬を一時、風雲から隔離したかったのである。このまま世間に身を曝させていると、いつかは幕吏の網にかかってしまう。
「半刻、考えてみる」と竜馬がいったのは、かれはこのまま長崎へ出て亀山社中に本腰を入れたいからだった。すでに胸中、社名を改称して、海援隊としようとまで構想ができていた。
※途中略。
新婚旅行である。この男は、勝からそういう西洋風俗があるのをきいている。いっそのこと、風雲をそとに、鹿児島、霧島、高千穂と、おりょうを連れて新婚旅行にまわるのも一興ではないか。そうきめた。
早速、おりょうを呼び、そのことを宣言した。なあ、おりょうよ、と竜馬はくすぐったそうにいうのである。
「縁結びの物見遊山だぜ」
この風俗の日本での皮切りは、この男であったといっていい。
塩浸温泉 坂本龍馬とおりょうの新婚旅行の記念碑
当日工事中のため、遠めの写真しか撮れませんでした。再訪後、写真は更新したいと思います。
西郷隆盛と銅像の由来 【現地案内板より】