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Last Updated: 12 December 2009

坂本龍馬の所縁の地、福井をご紹介します。龍馬は松平春嶽や由利公正に会うためにこの地を何度か訪れています。
慶応3年(1867)、龍馬は蟄居・謹慎処分中の由利公正に新政府の財政担当を要請すべくこの地を訪れています。実際に龍馬の死後、由利公正は新政府の金融財政政策を担当しています。また、五箇条の御誓文の起草にも参画しました。

福井城跡 現地案内板より

福井城は、慶長6年(1601)福井藩祖結城秀康が、6箇年の歳月をかけて造りあげた城である。
ここに天守閣をはじめ、巽櫓(たつみやぐら)など3つの櫓がそびえており、天守閣は、白壁の4層で、高さ8丈2尺2寸(約25メートル)あった。
寛文9年(1669)4月の大火により、焼失した。藩では、直ちに再建に着手し、3年後に復旧したが、天守閣だけは、幕府の禁令により再建を許されなかった。
福井城は、明治2年(1869)6月の版籍奉還に至るまで、藩主17代、270年にわたる越前松平家の居城として天下にその名をうたわれてきた。
お堀の石垣には、笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、当時の美しい姿は、今も本丸の跡にしのばれる。
このような都市の自然景観を維持するため、昭和13年5月13日風致地区に指定された。

福井城

福井城跡

福井城

現地案内板より

関ヶ原の戦いの後、越前に封じられた福井藩初代藩主結城秀康によって築かれた福井城は、本丸を中心に、堀と郭が幾重にも巡らされる典型的な環郭式平城で、徳川家康の次男の居城に相応しい壮大な城郭でした。
本丸内には、政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積一千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主の内、昌親(後、吉品)・重富・治好・慶永(春嶽)・茂昭の5人は、現在の中央公園にあった西三ノ丸御座所に居住していたとされます。(松平春嶽著「真雪草紙」)
藩主が政庁であった本丸と西三ノ丸御座所とを往復するための専用の橋が、御廊下橋でした。明治初期に撮影された写真(福井市立郷土歴史博物館蔵)によると、この橋は屋根付きの珍しい形態でした。

御廊下橋
御廊下橋

福井城址 御廊下橋

天守閣跡
天守閣跡

福井城址内

天守閣跡
福の井

天守閣跡と福の井

福井神社
松平春嶽公像

福井神社と松平春嶽公像

由利公正公像
由利公正公像

由利公正公像

現地案内板より

安政5年(1858)冬、横井小楠の一時帰国に同行して三岡八郎は九州に旅立った。目的は長崎での物資販売ルートの開拓であり、この成功により藩財政は著しく改善され、福井藩は幕末の雄藩としての地位を固めていった。彫像は九州に旅立つ三岡八郎(後の由利公正)と横井小楠の姿を表現したものである。

旅立ちの像
旅立ちの像

横井小楠(よこいしょうなん 1809-1869) ※現地案内板より

熊本藩士。幕末期の最も進歩的な思想家の一人であり、勝海舟、坂本龍馬なども一目置く存在だった。福井藩主松平春嶽は小楠の実力を見抜き、彼の派遣を熊本藩に要請した。この英断により安政5年(1858)小楠は福井藩の政治顧問に招かれ、三岡八郎等を指導し、藩政改革にその思想を反映させた。文久2年(1862)春嶽が幕末の先頭に立つ役職である政事総裁職に就任すると、そのブレーンとして国政に大きく関与した。文久3年(1863)福井藩を辞去し熊本に帰国。大政奉還後に新政府に招かれたが、明治2年(1869)京都で暗殺された。

三岡八郎【由利公正 ゆりこうせい ゆりきみまさ】(1829-1909) ※現地案内板より

幕末の福井藩士。若くして藩財政に興味を抱き独力で5年間にわたる調査を実施した。幕末四賢公の一人として称えられる福井藩主松平春嶽に抜擢され藩政改革を進め、横井小楠が福井に招かれると小楠の理論を実践し藩財政の立て直しに成功した。坂本龍馬と親交が深く、慶応3年(1867)龍馬が福井を訪れた目的の一つは、八郎の新政府への参画を促すことであった。
新政府では財政面の責任をにない、また五箇条誓文の原案を起草したことは有名である。明治4年(1871)初代東京府知事となり、東京の近代化に尽力した。